現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

鈴鹿の普済寺

2018-12-18 14:19:49 | 虚無僧って?

鈴鹿市岸岡・普済寺」で検索したら、結構 詳しい紹介があった。

しかし、「東福寺(臨済宗)の心地覚心(1207~1298)が、
建長元年(1249)宋に渡り、尺八を吹く四人の居士を連れて帰国。
紀州由良興国寺の開山となった」とあるのは間違いである。

鎌倉時代の初め、まだ臨済宗などは存在せず、心地覚心は、高野山(真言宗)の
僧だった。その覚心が帰国して由良に建てた寺は、当初は「西方寺」といい、
高野山の末寺「真言宗」だったのだ。
それが「禅宗の興国寺」となるのは、南北朝になってからである。

また、「禅宗の中の普化宗は 紀伊,伊勢,志摩を中心に 末寺百四十三ヶ寺を
数える関南第一禅林(箱根の関より南の禅宗の寺の第一の寺の意味)と言われた」
とか、「虚無僧は全国各地の虚無僧寺(普済寺)」を頼って旅をした」とか、
「興国寺に上って免許を得た」などとあるが、これもとんでもない。
そもそも、興国寺は虚無僧の本山ではない。

虚無僧寺は関東から東北にかけて、100カ寺ほどあったが、箱根より西には、
わずか数カ寺しかなかった。浜松の普大寺、京都明暗寺、伊勢の普済寺、
博多一朝軒ぐらいである。

その数カ寺しかなかった虚無僧寺の一つが、伊勢の鈴鹿にあったということが
むしろ注目されるのである。



  


霊山護国寺に「虚無僧素行」の墓

2018-12-18 14:18:04 | 虚無僧って?

ネットでいろいろ検索していて、見つけました。

京都の「霊山護国神社」に「明暗寺徒素行の墓」があるそうです。
解説文を転載させていただきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「太田六右衛門」の墓の近くにある「明暗寺徒素行墓」は、
「本多素行」のものである。
「本多素行(小太郎)」は、文政三年(1820)、膳所(ぜぜ)藩の出身。

天下を周遊するため自ら科(とが)を犯して永の暇を賜り、
京都の「明暗寺」に入って虚無僧となった。以後、但馬国
養父郡「明暗寺の出張所」に起居し、四方の志士と交わった。

文久三年(1863)の生野挙兵では、大和挙兵の破陣を受け、
自重を澤宜嘉に説いたが容れられず。僧形に扮して遁れたが、
福崎で姫路藩兵に捕らわれ、京都六角獄舎で斬られた。年四十五。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

そうなのだ。「虚無僧は幕府の隠密だった」などと、
まことしやかに語られ、信じられているが、幕末は
“勤皇の志士”の隠れ家でもあったのだ。