現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

沖縄戦を生き残って、今なお屍とともに

2020-08-12 14:01:53 | 太平洋戦争

今なお、屍とともに生きる(沖縄戦、嘉数高地から糸数アブラチガマへ)日比野勝広」という本をいただいた。
(発行:夢企画大地 名古屋市東区 052-712-0706 )

内容は、沖縄戦で負傷し、ガマ(洞窟)の中に置き去りにされ、3か月も暗闇の中にとじこめられながら奇跡的に助かった日比野勝広さんの回顧録だが、4人の娘さんたちがそれぞれに戦後の父の生き様を書き綴っている。
娘たちの視点で書かれているということが、話題になって、TVでもとりあげられた。わずか140ページ。ぐいぐい引き込まれてイッキに読んだ。

日比野さんは沖縄線で負傷し、ガマ(洞窟)の中に置き去りにされた。

暗闇の中で半年。死体と汚物と蛆。言語に絶する壮絶な地獄から奇跡的に生き残った日比野さんは、戦後、戦友の遺族を訪問し、友の最期の様子を伝えようとするが、遺族からは
「なぜあなただけ助かったのか」と責めたてられる。
「逃げたのではない、置き去りにされたのだ」という心の葛藤に苦しめられ。戦後60余年を経てもまだ夜の闇をこわがり、夢にうなされるという父親の姿を見て育ってきた娘4人。それぞれの父への思いが また感動を呼ぶ。

昭和39年東京オリンピック、「もう戦後は終わった」と叫び、国旗日の丸」を掲げようという愛国運動が起きる。町内回覧で国旗の斡旋があったが、日比野家だけは買わなかった。
「うちは貧乏で買えないのだ」と思い続けていた四女。後になって母から「日の丸を振って送り出した人が みな帰ってこなかった。だから日の丸を見ると悲しくなる」と聞かされる。母には、父との結婚前に婚約者がいたのだ。その人を日の丸の旗を振って送り出した。そして帰らぬ人となったのだった。


慰問団団長の首切り

2020-08-12 13:52:27 | 太平洋戦争

8月15日 終戦記念日。戦後70年を過ぎて、今まで堅く口を閉ざしていた元兵士たちが、重い口を開くようになった。

父の『従軍記』に、とんでもないことが書かれている。

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慰問団の団長が「戦地のみやげに是非(首切りを)やらせてくれ」という。彼は軍医だと言った。軍刀を携帯していた。
○○中尉が捕らえておいた密偵を引き出してきた。まだ少年だった。少しも騒ぐことなく、静かに頚を伸ばした。
「エッ!」と気合もろとも、団長は見事に切った。首は、前に掘ってある穴の中にドサッと落ちた。“泰然自若、従容として死につく”とのほめ言葉があるが、この少年は全くその通りだった。感心した。云々
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このことは公表したくなかったが、NHKの『わらわし隊の戦争』で三味線漫談家玉川スミさんの証言がなまなましく語られていた。
「切り口はレンコンの孔のよう。映画などでは、すぐ血が吹き出るが、すぐには血は出ない。30秒ほどしてブァーと出てくるの」と。
NHKで ここまで放送していいのかと驚く内容だった。

玉川スミさんも見たというのだから、慰問団団長などが“土産話”に“首切り”なんて、何件もあったのだろう。とんでもない話だ。

ミス・ワカナが戦争の現実を見て、次第に心を病み、ヒロポンに溺れたというのも判る気がする。



「慰安所設立」は主計の手柄?

2020-08-12 13:49:08 | 太平洋戦争

中曽根康弘元首相が、『終りなき海軍』(松浦敬紀・編/文化放送開発センター/1978)に寄せた一文が 問題になった。

「海軍主計士官」だった中曽根が、インドネシアの設営部隊の主計長だった時の自慢話。

「三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。

そんな彼らのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある。彼らは、

ちょうど、たらいのなかにひしめくイモであった。卑屈なところもあるし、ずるい面もあった。

そして、私自身、そのイモの一つとして、ゴシゴシともまれてきたのである」と。

 

1978年当時は「慰安所」のことなど、公然の恥部で、後に問題になるとは思って いなかったのだろう。

実は私の父の『従軍記』にも同様の記述がある。

父は陸軍の主計少尉で、中曽根氏同様、2000人の部隊の食料調達や衣料物資等の補給にあたっていた。慰安所の設置は「広西省・羅城」でのこと。

 

「昨年五月、武漢地区を出発して半年。長かった湘桂作戦もようやく終わったという感が深かった。長く駐留するとなると、治安上からも慰安所が必要でないかと大隊長に相談して開設することになった。まず村長に適任者の差出しを命じた。

彼は後家と出戻りの二人を連れてきた。他方 私は 范(中国語の通訳)を連れて 宜山の難民区に行って勧誘した。范の説得がきいて三人と話が決まった。美人だった。羅城に連れてきて、まず風呂に入れて洗った。これが大変な騒ぎ。次いで軍医に検診してもらいOKとなったので開設開店した。

兵隊からは形ばかりの料金をとった。この金は部隊の別途会計。(勿論兵に還元するように使ったが)。押すな押すなの大盛況、大好評だった。

主計多しといえども Pヤ(? 売春宿の隠語か)のオヤヂまでやった者はそうおるまい。羅城は桃源郷。他の部隊から多いにうらやましがられた。

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さてさて、応募してきた女性は、文面では合意の上のようだが、日本軍の申し出に抵抗できない環境ではあったろう。そして、「大隊長の許可を得てはいるが、一主計の計らいでおこなった」ことは、軍隊の関与となるのか問題となるところ。

 

 


「慰安婦」の募集と管理は?

2020-08-12 13:38:36 | 太平洋戦争

戦争中にビルマとシンガポールの慰安所で働いた朝鮮人男性の日記が、韓国で見つかった。

慰安婦の徴集に当たった部分の記載は欠落?しているが、日記を発見したソウル大学のA教授は、「朝鮮半島では、慰安婦の募集は業者が行っていて、軍が強制連行することは基本的にはなかったはず」との見解を示しているとのこと。

ただし、日記には「航空隊所属の慰安所2カ所が兵站(へいたん)管理に委譲された」なった」などという記述があり、慰安所や慰安婦と軍との関係が示されている。

また「慰安婦たちが映画を見に行ってきた」とか「慰安婦に頼まれて、600円を本人の貯金から引き出して、中央郵便局から(親元へ)送った」などという記述もある。

このことからも、慰安婦・慰安所は、強制連行された性奴隷というほどの過酷なものではなく、当時一般的に容認されていた性風俗の範囲内との印象が濃い。

私の父の『従軍記』にも「慰安所の設置」に関する記述がある。将兵の“養生?”のために「慰安所」の設置は 主計の役目で、軍隊に出入りしている“おやじ”夫妻に「慰安所の設置と娼婦の募集」を依頼している。その慰安婦の募集には、中国人を同行し、村々を廻って説得の上、連れてきている。

娼婦たちは、自ら応募してきたことになっていて、彼女たちは(お金のために?) 嬉々として 兵隊さんに奉仕しているようなニュアンスである。

前述の日記でも「600円を送金」とは、大変な額だ。

日本政府は、「慰安所の設置と運営管理には軍隊が関与していたことは認めるが、人集めは“民間業者”に任せてあって「軍が強制連行した」ということはみられないという見解を保持している。


ましかし、グアムなどでは、「兵隊が来て、強制連行された」と言う証言があり、その兵隊は、戦後、戦犯で処刑されている。


朝日新聞が「慰安婦の軍の強制連行」を誤報と認める

2020-08-12 13:34:10 | 太平洋戦争

「従軍慰安婦・軍の関与による強制連行」があったのか否か。

問題は、1982年に「朝日新聞」が「日本軍が従軍慰安婦を強制連行」という記事を書いた。しかし、その根拠は、「吉田清治 証言」。

「吉田清治」は、戦時中、「労務報国会 下関支部の動員部長」という肩書きで、「韓国・済州島で女性を強制連行した」と、証言していた。

しかし、「済州島で事実確認を行った結果、そのような証言も証拠も得られなかった」として、朝日新聞が、8月5日に、2面を割いて、「吉田証言」が虚言であり、朝日はそれを鵜呑みにして、発表してきたと報じた。

この問題で、「日韓関係」が険悪になり、両国の国益を損ねてきた罪は免れないが、朝日はそこまで罪の重さを感じてはいないようだ。

テレビ各局も、この問題には なにやら 不思議な沈黙を守っている。