現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

17歳で若年寄「横山主税」

2020-08-24 21:29:36 | 会津藩のこと

「白虎隊」が、14~16歳で“いたいけな少年”と言われるが、なんと「若年寄(家老)」の「横山主税」は17歳だった。

父の「江戸詰家老 1,300石・横山主税常徳」は、元治元年(1864)の蛤御門の変の直後 病死し、倅の「常守」が17歳で 直ちに家督を相続 し「主税」を襲名した。家老の倅は17歳でも、親の跡を継いで家老になれるのだった。

慶応2年(1866)、フランス皇帝ナポレオン3世のパリ万国博覧会に、幕府は使節団を派遣することになり、徳川慶喜昭武を派遣することになった。 このとき 会津藩では横山主税(20歳)と海老名季昌(24歳)の二人を随行させている。

横山主税は、上海・香港・シンガポールを経て マラッカ海峡を抜け、アラビアを経て、スエズに上陸、カイロでピラミッドを見学し、フランスのマルセイユ港に上陸。そこから汽車に乗り、パリに到着している。パリでは、留学中の山川大蔵(21歳)らと会った。

その後一行は、イギリス・オランダ・ドイ ツ・イタリア・ロシアなど欧州諸国を親善訪問し、大いに見聞を広め、慶応3年(1867)11月3日、横浜港に帰国した。

山川大蔵は24歳で家老、横山は21歳で若年寄に復帰。 翌年(1868) 正月には鳥羽・伏見の戦いが勃発。

5月、奥羽戦線の火蓋が切られ、白河城攻防の激戦が展開された。「横山主税」は、白河口総督「西郷頼母」のもとで副総督の任にあったが、白河城外稲荷山で戦死した。享年22歳。この時、牧原の一族も一人戦死している。

 

当家の先祖は、初代が 90歳まで殿様の側用人として勤めたため、子供も孫も先に亡くなってまった、お家断絶のところ、殿様の特別な計らいで「家老 横山家」から養子を迎えた。ということで、当家は「横山家」の血筋でもある。



新春ワイド時代劇 「白虎隊~敗れざる者たち」:テレビ東京

2020-08-24 21:21:36 | 会津藩のこと

2013年の新春ワイド時代劇 「白虎隊~敗れざる者たち」:テレビ東京 

いきなり西軍の会津侵攻、白虎隊の出陣から始まりました。
飯盛山で自刃する寸前で、時代が6年遡り、会津藩が京都守護職を拝命し、西郷頼母が「薪を背負って火中に飛び込むもの」と、殿を諌めるシーン。

西郷頼母を演じるのは「北大路欣也」。萱野権兵衛を「小林稔侍」。他家老職はみな 60歳過ぎのご老体。

ちょっと待って。文久2年(1862)当時、藩主「松平容保」は若干26歳。西郷頼母は32歳、萱野権兵衛は32歳。佐川官兵衛も31歳。神保修理で28歳。意外にも当時の藩主も家老職も30歳前後と若いのだ。

 

 

白虎隊が16~17歳で、現代では中・高校生でガキのように思われているが、15歳で成人、もう大人だったのだ。


会津藩でも「奇兵隊」

2020-08-24 20:52:30 | 会津藩のこと

「奇兵隊」といえば、高杉晋助が率いた長州の農民部隊。しかし「奇兵隊」をWikiPediaで引くと「会津藩にも“奇兵隊”があった」ことになっている。詳細は書かれていない。

どうやら、「正規の武士ではない、農民・町人から成る隊の呼称」として「奇兵隊」をとらえているようだ。

8月22日、西軍が母成峠を破って、猪苗代に侵攻してきた時、会津藩としては、正規軍が越後、日光口に出払って留守のため、農民、力士、僧侶まで狩りだし、戸の口に向かわせた。その隊名は

・「奇勝隊」 正奇隊(正規侍の意)、 半士半農の地方(じかた)御家人
・「修験隊」 山伏、修験者
・「力士隊」 力士
・「僧侶隊」 僧侶
      
・「農町兵 新錬隊」義勇兵、士分
・「敢死隊」 郷頭、肝煎、代官、支配役

その数 約500人ほどという。しかし、所詮、鉄砲など撃った事もない寄せ集めの烏合の衆。どうやら、塹壕堀りに狩り出されたようだ。正規兵は「白虎士中二番隊」の 50名のみ。

牧原の祖「牧原奇平」は、60歳で郡(こおり)奉行だった。それで、半士半農の地方御家人を駆り集め「奇勝隊」として戸の口へ向かった。名前が「奇平」というので「牧原奇平隊」と「奇兵隊」を混同したのではないだろうか。

牧原奇平の墓

 

会津戦争では牧原一族で8人も亡くなっている。

私の直系の曽祖父「牧原源八郎」は、「奇平」の従弟。家督を継ぐ惣領以外は「ごく潰し」。会津郊外の北会津村二日町村の郷士「新田治助」宅で、寺子屋と医術開業をしていた。そして西軍来たるの報に、従弟の「牧原奇平」に付いて、戸の口が原に向かった。まさに「地方御家人」としての出陣だった。

そして西軍の猛攻に為す術なく。奇平は自刃。源八は左腕に鉄砲玉を受け退却。北方を回って二日町村に帰った。

二日町村は 城の西二里(8km) 。敵はまだ西には来ていなかった。

源八は新田家にかくまわれ、一か月後 戦争は終わった。源八は猪苗代に収監されず、また翌年の斗南藩への移住も対象外となった。新田家は相続人がおらず、源八はそのまま新田家の跡を継ぐこととなった。

源八は晩年になって、腕の中から鉛の鉄砲玉が出てきた。

 

 


なぜ今「白虎隊」?

2020-08-24 05:02:25 | 会津藩のこと

1986年 日本テレビ・年末時代劇『白虎隊』は、まこと秀逸でした。
堀内孝雄の『愛しき日々』の歌詞「かたくなまでもまっすぐな道、おろかものと笑いますか」が、会津人の無念を代弁してくれ、涙を禁じえませんでした。

 

それにくらべ、2007年にテレビ朝日で放送された『白虎隊』は、サンザンでした。脚本が「内館牧子」。ただ死ぬことばかりを誇りとする言動にはウンザリ。この頃から「右翼団体」や「ネット右翼」が 台頭してきており、右傾化の片棒を担ぐような取り上げ方でした。

「白虎隊」は、戦前、“忠君愛国”の思想教育に利用され、
「特攻隊」で多くの若い命が失われたことを思うと、私としては、
「白虎隊」を「国に殉じた少年達」として美化することには抵抗を感じます。

そもそも、「白虎隊」は、士中一番隊 49名、二番隊 42名、寄合一番隊 106名、二番隊 67名、足軽隊 79名から成り、合計343名もいたのです。

そのうち、戸の口ケ原に出陣したのは、士中一番隊49名と番隊の42名。その内飯盛山で自刃したのは 20名。
蘇生した「飯沼貞吉」の口述によれば、彼等は、山中を逃げ迷って、本隊とはぐれたのであって、残り半数は、きちんと城に戻っているのです。

自刃した19人が、あまりにも賛美されたために、私の先祖も含めて、生き残った者は「卑怯者」のそしりをおそれ、会津を離れ、「白虎隊士」であったことを隠して、ひっそりと生きざるを得なかったのです。吉良邸への討ち入りに参加しなかった赤穂浪士と同じ。生き残った者にも“悲劇”があったことを、私は、いつか書き残したいと思っています。