現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

ついに明かされた「泰西王侯騎馬図」の謎

2021-05-31 22:02:02 | 会津藩のこと

実践倫理宏正会の会誌『倫風』5月号のグラビアに「泰西王侯騎馬図」が

載っていました。もうビックリ仰天です。この屏風絵は会津鶴ヶ城にあった

もので、現在は東京のサントリー美術館と神戸市立博物館に別れて展示

されているものです。

美術史家で筑波大学教授の「守屋正彦」氏の解説には「キリシタン大名の

蒲生氏郷が会津に伝えた」とあります。西洋風の絵であり、蒲生氏郷は

キリシタン大名であったことから、短絡的にそのような説が出回って

いましたが、現代では否定されています。

 蒲生 氏郷は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将

初め近江日野城主、次に伊勢松阪城主、最後に陸奥黒川城主。

黒川を「会津若松」、城を「鶴ヶ城」と命名する。

高山右近と親しく、キリシタンとなる。洗礼名はレオン(またはレオ)。

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この屏風絵は、長崎にあったイエズス会の神学校セミナリオで制作されたものと

考えられています。

画の教師はイタリア人修道士ジョバンニ・ニコラオ

この図は、アムステルダムで1609年に作られた世界地図の上部を飾る騎馬図を元に描かれたと推定され、氏郷は1595年に他界しているので、氏郷の代には存在していなかったことになります。

では、いったい いつ、会津鶴ヶ城の天守に飾られたのでしょう?。



会津は奥羽の抑えとして、有力な大名によって統治されてきました。源頼朝は平泉の藤原氏を滅ぼした後、三浦一族の佐原(芦名)氏を補任する。

その芦名は1589年伊達政宗に滅ぼされる。だが、翌1590年、秀吉は小田原北条氏を滅ぼした後、伊達政宗を仙台に追い払い、信長の娘婿の蒲生氏郷を会津90万石の大守とした。しかし1595年氏郷が歿すると、その子秀行を宇都宮に転封し、越後の上杉景勝に与える。

秀吉が亡くなった後、会津の上杉は石田三成と手を組み家康をはさみ討ちにせんとしたが、家康は宇都宮からとって返して関ケ原で石田三成を討った。

関ケ原の後、1601年上杉は山形県の米沢に封じ込められ、会津には蒲生氏郷の子「秀行」が再度入る。秀行の妻は家康の三女「振姫」でした。

 この絵が会津にもたらされたのは、この蒲生秀行とその子忠郷、

その弟の忠知の時代、1601年から、忠知が伊予松山に移封される

1627年までの間と考えられます。

会津は、蒲生忠知と入れ替わりに伊予松山より加藤嘉明が入封。その加藤氏は 1643年、2代目の明成の時に改易となり、将軍秀忠の庶子の保科正之が入封します。

NHKで「泰西王侯騎馬図の謎」という特集番組が放映された時、

この屏風は、「この際に、将軍家から保科正之に与えられたものではないか」との坂本満氏の説を取り上げてましたが、これも根拠のない話。

2代将軍秀忠は1614年に「キリスト禁教令」を発して、キリシタンを厳しく弾圧していますから、このような絵を贈ることは考えられません。

1612年には蒲生秀行が歿し、その子忠郷が跡を継ぎますがまだ10歳。

母親の振姫が後見人として実権を握っていました。まさにこの時期、1614年前後、イエズス会は 蒲生秀行の妻「振姫」にこの絵を贈り、禁教を緩めてもらうようすがったのではないかと考えられます。

なぜ会津だったのか?。それは「振姫」が家康の三女であり、将軍秀忠の妹だったからというのが私の推理です。


『泰西王侯騎馬図』に描かれている王は

2021-05-31 17:15:08 | 会津藩のこと

『泰西王侯騎馬図』

 

描かれている王侯は、右から、ペルシャ王、アビシニア王(エチオピア王)、フランス王アンリ4世、イギリス王あるいはギーズ大公フランソワ・ド・ローランあるいはカール5世とされている。異教徒のペルシャ王は黒人で槍を持つのに対し、

キリスト教国の3人の王は王笏を持ち、ペルシャ王の方を向いている。キリスト教国の三人の王が、ペルシャ王にかしづいているような不思議な構図なのである。

 

神戸市博物館に保管されている方は、右から タタール汗、モスクワ大公、トルコ王、および神聖ローマ皇帝ルドルフ2世とされ、キリスト教徒と異教徒の王が闘う構図になっている。構図も不思議な絵なのだ。世界地図の周囲に飾りのように描かれていた小さな絵を、等身大にまで拡大して描いた人は、まったく無名のキリシタン画家とはいえ、すばらしい才能である。

これが基になった絵か?


『泰西王侯騎馬図』 サントリー美術館への経緯

2021-05-31 17:14:28 | 会津藩のこと

会津鶴ヶ城の天守閣にあったという『泰西王侯騎馬図屏風』。

八曲一双のうち半分は、長州藩士「前原一誠」の遺族から、池永氏へ、

そして現在、「神戸市立南蛮博物館」の所蔵するところとなっている。 

 

では、残る 4曲一双は?

松平家が所有していたが、実は、戦争中、一時私の家に保管されていた。

叔父「牧原源一郎」は、福島県選出の国会議員として、東京の目黒区に家を構えていた。そして、どういういきさつか、松平容保のご子孫から この襖絵を預かっていたようだ。しかし、戦争末期、空襲が激しくなり、「東京では危ないから、疎開する」と、運び出され、そのまま行へ不明になってしまった」と叔父が語っていたのを 聞いたことがある。

とろがところがである。最近になって、叔父源一郎の長女(美智子)が戦後嫁いだ先の高瀬家で「この絵は私の家で預かっていた」とのこと。高瀬家は江戸時代から続く漆器店「白木屋」の店主で、幕末も明治にも、相当の金を拠出して会津の経済を支えてきた豪商。高瀬喜左衛門氏は青年会議所、商工会議所等の会頭を務め、会津若松市長にもなった人物。

その高瀬家からいかなる経路で渡ったものか。昭和30年代の末、西宮市の藤井氏が所有していたのをサントリー美術館が購入した。

そのとき、「出所を明かさないという条件で、某氏から買取った」というような説明がなされていた。なにかいわくありげである。

殿様から預かった品が、持ち出されて  行くへ不明になったとあれば、世が世なら切腹もの。事実、叔父源一郎の妻「みと」は戦後自殺している。自殺の理由は不明だが、この絵の紛失にからめて、フィクション(つくり話)として推理小説を書きたいと思っていたが、そのことを父に話すと、父にひどく叱られた。父は「戦後は、殿様も(生活に)苦労されていたから、(極秘に)手放した(売った)のだろう」と。

30年ほど前、東京の上野精養軒で毎年開催される「会津会」に 私が初めて出席したときのこと。松平の殿様(保定氏)も臨席されていて、後方の末席に座っていた私のところまで来られ、「牧原さんには、大変お世話になりました」と、初対面の私に丁重に頭を下げられた。

私はびっくり、大変恐縮した。そのとき この 『泰西王侯騎馬図』のことが脳裏をかすめた。


「泰西王侯騎馬図屏風」神戸市博物館への経緯

2021-05-31 17:13:32 | 会津藩のこと

『泰西王侯騎馬図屏風』。会津鶴ヶ城の天守閣に秘蔵されていたもので、元は八曲一双の大作だったが、現在、神戸市立博物館と東京のサントリー美術館に 四曲一双ずつ別々に保管されている。いずれも、国指定重要文化財。

 

以前は、「鶴ヶ城落城の時に 長州の前原一誠によって略奪された」などと言われていた。とんでもない間違い。

落城後、松平容保は東京に移送されたが、その時の持参品の中にはいっていた。屏風から切り離され、巻かれた状態だったという。

明治になって、前原一誠は、奥平謙輔とともに、会津藩の再興に尽力してくれ、会津藩士は下北に移住し、「斗南藩」として再興することになった。

その恩情に感謝して、明治三年、お礼にと、半分の四曲一双を前原氏に贈ったのだった。

「略奪した」など、前原氏には恩を仇で返すような大変失礼なことをした。

その前原一誠は、明治9年、奥平謙輔とともに萩の乱(不平士族の反乱)を起こし、捕えられて処刑された。

この「王侯騎馬図」は、神戸の富豪「池永」氏が、昭和初年に、私財を投じて「池永美術館」を設立した際、前原一誠の遺族から贈られたとのこと。池永氏は家屋敷を売って、美術品を買い集め、戦後は美術館ごと神戸市に寄贈された。

それで今、神戸市「南蛮美術博物館」に展示されています。