現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

2月3日は「諭吉忌」

2023-02-04 21:11:09 | 虚無僧日記

2月3日は「諭吉忌」。福沢諭吉先生のご命日。幼稚舎から大学まで、塾員の多くが墓参に向かいます。

向かう先は、今は港区麻布十番の善福寺、

私が在籍していた頃は品川区大崎の常光寺でした。

なんでかというと、福沢諭吉のご遺体は、品川の常光寺から港区の善福寺に改葬されたのです。

なんでか。

福沢諭吉が亡くなったのは1901年2月3日のことで、葬儀は菩提寺の善福寺で行われました。葬儀には1万5千人が参列したといわれます。善福寺は浄土真宗本願寺派。

善福寺は東京では浅草寺、深大寺に次ぐ古刹で、幕末から明治にかけてアメリカ領事館が置かれ、領事たちの宿所になっていました。それで福沢諭吉は度々善福寺を訪れ、菩提寺と定めていました。

しかし、当時、東京市は土葬を認めなかったため、東京市郊外の大崎村にある常光寺に土葬で埋葬されたのです。ここは福沢諭吉が生前散歩に訪れ、見晴らしが良いのが気に入って、「死んだらここに埋葬してほしい」と遺言していたのでした。

その当時、ここは廃寺になっていたようですが、その後、浄土宗の寺として復興したため、福沢家の宗旨(浄土真宗)と異なり、寺側から「改宗するか改葬するか」と迫られ、菩提寺の善福寺に改葬されたのです。

1977年 善福寺に改葬

諭吉の没後76年経過した1977年、改葬が行われることになりました。そこで、ご遺体を掘り返したところ、諭吉の遺体は亡くなった時そのままに着物をつけたミイラになっていたといわれています。

そして、諭吉の遺体は火葬され、ご遺骨が善福寺の墓に収められたのでした。

常光寺には現在石碑が設置されている

ちなみに、諭吉がかつて埋葬されていた常光寺には現在石碑が残されています。
石碑には福澤諭吉先生永眠の地と記されており、諭吉の功績などが記されています。

福澤諭吉と妻の錦さんの墓は、高さ1mほど。それほど大きくはありません。妻の錦さんの話では、

「福澤諭吉は墓は小さくていい、大きな墓は建てるなと遺言していたのですが、塾員たちによってこんな大きな墓が作られてしまった」と。

 


2月4日は赤穂義士切腹の日

2023-02-04 21:08:38 | 虚無僧日記

2月4日は私の誕生日 昭和23年生まれ。今年75歳。

2月4日 今日は何の日 赤穂浪士47名が切腹した日

でも、もう テレビの話題にものぼならなかった。

 

「赤穂浪士 切腹」の画像検索結果

浅野内匠頭が、勅使下向の接待役を命ぜられたのが元禄14年(1702)の2月4日。そして、内匠頭が江戸城松之廊下で吉良上野介に斬り付けた刃傷事件が3月14日。内匠頭は即日切腹。上野介はお咎めなし。

この「片手落ち」の裁決に異議申すカタチで、浪士47士が吉良邸に討ち入り、本懐を遂げたのが、翌元禄15年(1703)の12月14日。1年と9カ月後のこと。

そして年開けて元禄16年の2月4日。46人が切腹。47士の内、足軽の寺坂は、討ち入りの前後に、故あって立ち退いていて、後自首したがお咎め無しとなっている。

しかし今、泉岳寺には寺坂と、討ち入りに参加する前に自害した萱野重実の墓もあり48墓になっているとのこと。

 

浅野内匠頭が刃傷に及んだ理由は諸説ある。その中である茶会で山田宗徧が持参した一軸を吉良が「一休の真筆だ」と言ったところ、内匠頭が「違う」と言って吉良をやり込めたので、確執ができたという話もある。

(実録本の『赤穂精義参考内侍所』)

赤穂事件に「一休」がからんでいたとは知らなかった。

 

大石内蔵助他16名は細川家下屋敷(現港区高輪)で、内蔵助の子「主税(ちから)」は、港区三田の久松松平家(愛媛松山藩)の中屋敷跡で切腹。

なんとそこは慶應大学の裏、現イタリア大使館のある所で、昭和14年(1939年)当時の駐日イタリア大使によって忠魂碑が建てられているとか。見学は不可。

 

イタリア大使館

この隣りが会津藩下屋敷。私の先祖が生まれた場所。

 

 


「暖簾に胡坐かくな」

2023-02-04 21:06:54 | 虚無僧日記

今日の学びは「暖簾(のれん)に胡坐(あぐら)かくな」です。

モーニングの お仲間は、名古屋に先代から住んでいる方ばかり。
「どこどこの店は、美味しい」とか、いろいろな情報
交換の場になっています。

今朝は、「老舗」の店が、2代目、3代目になると、
創業者の真摯な心が失われ、顧客離れが進んでいる
というような話が出ました。

「和菓子の○○の2代目は“暖簾(のれん)”に 胡坐
(あぐら)をかいて、客に対する態度が横柄」だとか、
「値段ばかり高くて、菓子の味も落ちた」と。

また、「ひつまぶし(鰻料理のひとつ)の△△は、
以前は、切った鰻(うなぎ)を きちんと きれいに
並べてあり、見た目にも美しかったが、今は、
ただご飯の上に乗せてあるだけ。そのご飯も
柔らかかったり、固かったり、冷たかったりで、
客が減った。

「客が減り、売り上げが落ちたのは、鰻の値段が
上がったから」と 社会環境のせいにするのではなく、
「高くとも、それに見合う“心配り”があれば、
客はついてゆく」との話しでした。なにせ、金持ち
の方は まだまだ多い名古屋です。顧客は“満足”に
見合った代金は払うのです。

私の家の近くの「トンカツのオゼキ」。住宅地の
中の目立たない、ごくありふれた店構えですが、
昼時は満員。中は結構広く、7~80人は入って
いるでしょうか。遠くからでも車や自転車で来る
リピーターがたくさんいるのです。店員の一人
ひとりが、明るく優しい応対で、店にはいった
瞬間、なにかホッとするものがあります。

第61回 名古屋・岩塚の「とんかつオゼキ 鈍池店」。名物の“焼きとんかつ”を味わう|ウォーカープラス


こうして流行っている店と、そうでない店、
明暗がはっきりしてきているように思います。