現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

尾瀬の国(藩)境争い

2021-06-14 16:25:12 | 会津藩のこと

蜂谷緑著『尾瀬ハイキング』の中で、「銀山平」のことが書かれている。

「寛永18 (1641)年、銀鉱が発見され、越後高田藩と会津藩で、その領有権をめぐって、争いとなった。
決着つかず、幕府に訴え出て、その結果、会津は外様、高田の松平氏は親藩ということもあってか、正保3年(1646)、只見川を国境として、銀山平は高田藩のものとなった」云々とある。

これは変だ。会津藩は、徳川秀忠の妾腹の子 保科正之が藩主となって立藩された。23万石。親藩筆頭である。

越後高田藩も、松平忠直の子「光長」を藩主とする26万石の親藩だった。光長の母は、秀忠と「お江」との娘「勝子」である。

時の将軍 家光からみると、保科正之は弟、松平光長は甥になる。しかし、「正之」は 秀忠の隠し子で、「お江」に気遣って、信州高遠の保科家に養子となった。
会津保科家が「松平」姓を許されるのは3代目からなので、この時は、まだ「保科姓」だから「外様」扱いだったというのだろうか。

調べたら、銀鉱脈が発見されたのが、1641年。この時会津の領主は加藤明成。たしかに外様大名でした。そしてまもなく改易され、保科正之が入封したのば1643年。幕府の採決があったのは1646年ということでした。

 

ウィキペディアで調べてみれば、
最初、高田藩に届けられ、幕府の許可を得て採掘に踏み切った。その後に会津藩から横槍を入れたが、1646年「只見川を国境とするよう」裁決が降りた。

その後 1681年、高田騒動で松平光長は改易され、銀山の採掘は中止となってしまった。

そして 1689年(元禄2)には、只見川を隔てた会津藩領からも銀鉱が発見されたが、江戸幕府は両銀山を直轄経営としてしまった。

つまり「トンビに油あげ」だったか。

一時は、銀鉱で働く者2万余の盛況を極め、女郎屋もあったそうだが、今は、奥只見湖の湖底に沈んでいる。


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