父の生家には 会津藩が 樺太の警備にあたった時の図が 10点ほどあり
屏風に仕立てられていました。
【宗谷における会津藩の北方警備】
18世紀後半、ロシアの南下が目立つようになると、享和2年(1802)
蝦夷地全島を直轄地とした。そして、文化4年(1807)東北各藩に蝦夷地の警備を命じた。
まず文化4年に津軽藩士230名が派遣され、宗谷において北方警備に従事したが、
水腫病等により多数の死者を出したため、文化5年(1808)会津藩と交代し、
内藤源助、梶原平馬率いる587人の会津藩兵が蝦夷地に渡った。
梶原平馬はこのうち241人を率いて利尻島警衛に向かった。
また、宗谷上陸隊とは別に家老北原采女が706人を率いて樺太に直航、
久春古丹に陣営を構築し、樺太警備に従事した。
【北方警備に従事した会津藩士の墓】
北方警備に従事した藩士達は、自然の猛威の中で水腫病等に倒れていった。
現在、宗谷岬に13基の藩士の墓があるが、うち3基は会津藩士の墓である。
ほかに、利尻島に8基、焼尻島に2基、会津藩士の墓がある。
私の母方の先祖も樺太警備に従っていて、帰途 暴風雨に遭って舟が難破。
奥尻島に上陸し、1カ月かかって会津に帰国したのでした。利尻島にも
この時亡くなった会津藩士の墓があるとのこと。
先祖探しの虚無僧の旅、最後は奥尻島です。