現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

紅花の産地だった「長南町」

2021-02-14 20:02:27 | わが家のこと

長南(ちょうなん)町」のガイドブックに「紅花と言えば山形ですが、紅花の原産地はここ長南町で、室町時代に武田に攻められ、敗れた長南一族が山形に逃れて、紅花を山形に伝えた」とありました。

 

ネットで見ると「長南」姓は山形に多く、「全国長南会」という組織が「長南氏」の歴史について詳しく調べています。

1456 古河公方の命で武田信長、長南に侵入。長南修理介常春(23)降伏。
1459 長南氏義、千葉氏に抗す
1476 長南氏、出羽最上の清水氏に召し抱えらる

この時「紅花」を山形に持ち込んだのでしょうか。随分昔のことです。

しかし、山形での紅花の栽培が盛んになり、「国産品」として出荷されるようになるのは、江戸時代の後半のようです。


私の推測ですが、小田原北条氏滅亡後、信濃高遠の保科正光がこの地を支配しており、10年後、大阪の陣以後、高遠に戻り、後、保科正之の代に山形へ移封、さらに会津に転封となります。
紅花は会津でも栽培されるようになっており、長南の紅花は保科氏によって山形、会津に伝えられたのではないかと。

会津の蕎麦(ソバ)は、保科氏が信州から伝えたというのはよく知られた話です。高遠の人が言っていました。保科家の会津移住の際、蕎麦職人と蕎麦の種をみんな持っていってしまったため、高遠からは蕎麦屋が いなくなった」と。

紅花もそうではなかったかと思うのです。

『山室家譜伝記』によれば、山室氏を滅ぼした後の領主となった保科正道の娘が「長南御前」といい、化粧料として5千石の地を与えられていたとのこと。

「長南町」の由来については、地元の人に聞いても「知らない」というのですが、「長南御前」の御料地だったと知って驚きです。「長南町」には「御所館」という城跡もありました。

思えば、父の納骨の日、家族で「笠森観音」に詣でました。その時、父の遺骨は 車の中に置いていったのですが、後で写真を現像して驚きました。母の側に白いかげが付きまとっているのです。これぞ父の「心霊写真」かと今でも思っています。

 


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1 コメント

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お元氣さまでございます。長福寿寺の今井長秀です。 (今井長秀)
2012-06-09 08:23:10
紅花の里・長南の長福寿寺にて副住職をつとめております今井長秀と申します。虚無僧さんも大変よく勉強されているご様子で、ビックリしました。確かに直接[長南→山形]ではなく、途中に信濃を経由します。もちろん、長南氏全ての方が[長南→信濃→山形]へ移ったわけではありません。私の母方は[長南→岩手]ルートのようです。岩手ルートに逃れた長南氏は海運業を営んだようです。母方の実家も造船所でした。…でも、ここまで細かく書くとわかりにくいので…[長南→山形]にしています。ご了承ください。
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