「長南(ちょうなん)町」のガイドブックに「紅花と言えば山形ですが、紅花の原産地はここ長南町で、室町時代に武田に攻められ、敗れた長南一族が山形に逃れて、紅花を山形に伝えた」とありました。
ネットで見ると「長南」姓は山形に多く、「全国長南会」という組織が「長南氏」の歴史について詳しく調べています。
1456 古河公方の命で武田信長、長南に侵入。長南修理介常春(23)降伏。
1459 長南氏義、千葉氏に抗す
1476 長南氏、出羽最上の清水氏に召し抱えらる
この時「紅花」を山形に持ち込んだのでしょうか。随分昔のことです。
しかし、山形での紅花の栽培が盛んになり、「国産品」として出荷されるようになるのは、江戸時代の後半のようです。
私の推測ですが、小田原北条氏滅亡後、信濃高遠の保科正光がこの地を支配しており、10年後、大阪の陣以後、高遠に戻り、後、保科正之の代に山形へ移封、さらに会津に転封となります。
紅花は会津でも栽培されるようになっており、長南の紅花は保科氏によって山形、会津に伝えられたのではないかと。
会津の蕎麦(ソバ)は、保科氏が信州から伝えたというのはよく知られた話です。高遠の人が言っていました。保科家の会津移住の際、蕎麦職人と蕎麦の種をみんな持っていってしまったため、高遠からは蕎麦屋が いなくなった」と。
紅花もそうではなかったかと思うのです。
『山室家譜伝記』によれば、山室氏を滅ぼした後の領主となった保科正道の娘が「長南御前」といい、化粧料として5千石の地を与えられていたとのこと。
「長南町」の由来については、地元の人に聞いても「知らない」というのですが、「長南御前」の御料地だったと知って驚きです。「長南町」には「御所館」という城跡もありました。
思えば、父の納骨の日、家族で「笠森観音」に詣でました。その時、父の遺骨は 車の中に置いていったのですが、後で写真を現像して驚きました。母の側に白いかげが付きまとっているのです。これぞ父の「心霊写真」かと今でも思っています。