「竹内巨麿」が神代の昔から先祖代々伝えられたとする『竹内文書』を世に広めたのが「酒井勝軍(かつとき)」である。
「酒井勝軍」(1874~1940)は 山形県の生まれ。明治のはじめ、アメリカに渡り賛美歌を習い、キリスト教の宣教師となった。
語学堪能なため、1918年(大正7)大本営付の通訳としてシベリア方面で従軍する内に、当時、西欧を席巻していた「ユダヤ禍論」を知り、帰国後はユダヤ人とフリーメーソンの研究に没頭し 反ユダヤ論の論客として名を馳せた。
ところがその後、エジプトに行き、ピラミッドの調査や、パレスチナで古代イスラエルについて調べるうちに、「親ユダヤ」になり、「日本とユダヤは同祖」という「日ユ同祖論」を展開するようになる。
ついには、モーゼが神から授かったという「十戒」は、日本にまで運ばれ、日本国内に隠された。あるいは、「ピラミッドは日本の何処かにもあるはず」という仮説を立て、神の啓示と称して、次々とその場所を言い当て、予言を的中させた。
「酒井勝軍」は その探索旅行中、昭和4年、茨城県磯原の「天津教本部」を訪れて、「竹内巨麿」から「竹内文書」や「モーゼの十戒」を書き付けた「石」、「ピラミッド建造の由来書」などを見せられた。
その石には「アダムとイブ」「モーゼ」などの名前が書かれていたり、ムー大陸やアトランティス大陸の消滅を思わせる記述があったりで、酒井はすっかり感激し、以来、天津教の有力なイデオローグとなっていった。