現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

④ 8/12 豊後高田から国東へ

2009-08-22 20:46:42 | H21. 8月 九州、中国地方への旅
レンタカーで中津から国東半島の入り口、豊後高田に向かう。
途中で雨。高田に着くと雨は止んだ。私は“晴れ男”。

豊後高田は、「昭和の町」を“町おこし”にして、町並みの保存と
観光客の誘致に力を注いでいるとのこと。慶応の後輩、小菊さんが
高田の出身で、以前から「虚無僧が似合う町だから是非に」と
勧めてくれていた。

小菊さんが、事前に根回しをしておいてくださったおかげで、
堂々と? 町内を虚無僧で廻る。反応はさまざま。「どう対応して
よいか」困惑げな顔をする人。「お茶でもどうぞ」と勧めてくだ
さった店も。虚無僧のすべりだしは、小菊さんのおかげで好調。

狭い町だから1時間もすれば一巡してしまった。雨も降ってきたので
車で「富貴寺」へ。ここは平安時代のお堂で国宝だ。道路から少し
階段を上った茂みの中に在った。福島県の白水の阿弥陀堂とそっくり。
東と西、1,500km も離れていて、1,000年前の建物がそっくり同じ。
日本は狭いのか広いのか。

さらに車を走らせ、国東半島の反対側の国東市富津に。
カーナビは便利だ。「右」「左」と言われるままにハンドルをきれば
目的地に行ける。ただし「目的地周辺です。音声ガイドを終わります」で
プッツン。あとは自分の直感で探すしかない。

富津は小さな漁師町。家股さんからご紹介いただいた松吉さん宅は
すぐわかった。お祭りの準備で大忙し。祭りが始まるまで、車の中で
仮眠。寝れるときに寝ておくのだ。

⑤ 8/12 富来の「夕すずみ会」

2009-08-20 22:41:54 | H21. 8月 九州、中国地方への旅
「家股」とは珍しい姓だ。父の戦争の時部下だった「家股」さんの
ことをブログで書いたことで、富来(トミク)に住む「家股」さんが
「もしかして親戚ではないか」と手紙が来たのが、ほんの2ヶ月
ほど前。

何度が手紙のやりとりをしているうちに、「お会いしたい」と
私が押しかけてきたのだ。これって「メル友」?。ところが
富津に来てみれば、家股さんは腰痛の手術で大分の病院に入院。
でも田吹さん、松吉さんを紹介してくださっていた。

お二人の名前が偶然?「鈴美(すずみ)」。それでお二人が企画して、
毎夏「夕涼み会」という手作りのお祭りが行われているという。

そのお祭りに「飛び入り参加」させてもらうこととなった。
人通りも全くない閑散とした漁港だが、祭りが始まると、三々
五々、どこから来るのか、すごい人。小中学生の子供も200人
くらい居る。あとで判った。お盆休みで孫子たちがたくさん
遊びに来ていたのだ。

特設のステージでは、地元のサークルだけでなく、手品師や
演歌歌手など県外からも呼ばれて来ている。私もそのうちの
一人。「通りがかりの虚無僧」としてステージに上がった。
そこで、リクエストのあった「千の風」ほか数曲を吹く。

終わってご婦人が近寄ってこられ、お布施を入れてくださった。
聞けば名古屋から帰省している方だった。私の後の「みそら
ひばり」のもの真似の演歌歌手には“おひねり”がたくさん
飛んでいた。ムムム、負けたか。

ま、虚無僧は芸人ではござらぬ。差し出されたおにぎりを
3つもほおばる。これで十分。昨晩から何も食べていな
かったのだ。

⑥ 8/13 国見市竹田津の大光寺

2009-08-20 12:42:38 | H21. 8月 九州、中国地方への旅
夜九時まで、富津の「夕涼み会」を楽しんだ後、海岸べりを
左回りに廻って、国見の「道の駅」で、車中泊。

朝5時過ぎてようやく空が白みはじめる。裏は広い海水浴場
だった。誰もいない。シャワー室があったが、10時まで開か
ない。真っ赤な朝焼けを見る。朝焼けは雨のしるしか。


そして、国見市竹田津の大光寺に行く。
ここも家股さんの友人の花崎さんの紹介先で、事前に手紙を
送っておいた所。だが、今日はお盆のさ中。ご住職は檀家周りで
不在。しかし奥様が、親切にいろいろ世話をやいてくださった。
聞けば奥様は「浪曲師」で、この寺で、浪花節その他イベントを
行っているとか。

奥様の指示で、寺男の人に花崎さんの家まで案内してもらった。
寺男の二人はホームレスだったのを、このお寺の住職が、隣地に
住まわせ、面倒みているのだとか。

花崎さんのお宅で、お昼に天麩羅とうどんをごちそうになる。
家股さんも花崎さんも、地元の人ではない。東京から国東に移り
住んできたIターン組なのだ。

花崎さんは、大学は京都で、観光バスのアルバイトをしていたとの
ことで、東福寺の中の明暗寺についても知っていた。

さて、お昼をごちそうになって、また大光寺に戻ると、丁度ご住職が
法事を終えたところ。次の法事があるようだが、私にいろいろ話を
してくださった。

なんとこの寺は法灯国師が開山とのこと。法灯国師は、「中国から
普化宗を伝えた日本開祖の人」と虚無僧の中で言い伝えられている。

その法灯国師が中国からの帰路、この地に立ち寄ったか、時の帝の
命を受け、名代として宇佐八幡に詣でた時に、この地に上陸したとか。
言い伝えがあるそうな。法灯国師ゆかりの寺とは、正に仏縁、驚きで
あった。


⑦ 8/13 大分市へ

2009-08-20 08:38:31 | H21. 8月 九州、中国地方への旅
8/13 国東半島を半周し、途中、杵築城に寄り、さらに大分市へ。
カーナビのおかげで、護国神社もすぐわかった。家股さんが
入院されている病院もすぐ近くだったので、面会に行った
思っていたより若々しくチャーミングな方だった。すべてが
“神仏の御心”と思えるくらい、入院されたからこそ、ここで
会えたのだ。涙を浮かべて歓迎してくださった。

さて13日の晩は、護国神社では「みたままつり」の初日。
1,000個の黄色い提灯が飾られ、能舞台では、なんと「おじん
バンド」がテケテケテケテケとベンチャーズを奏でていた。
「オールドのみなさんには懐かしい曲でしょう」との言葉に、
自分も「オールドの世代か」と気づかされる。

近くにマックス・ヴァリューがあり、24時間営業とのこと。
深夜、弁当類は「2割引」で売っていたが、何も食べたくない。
氷はただでお持ち帰りできる。トイレもある。駐車場で夜を
明かすことに。


⑧ 8/14 大分護国神社「警察隊墓地」

2009-08-20 07:48:42 | H21. 8月 九州、中国地方への旅
8/14 夜が明けて、護国神社の脇にある「警察官隊墓地」に行く。
西南戦争で戦死した「軍人墓地」は、神社の駐車場わきで、すぐ
わかったが。地図上では、その隣りにあるはずの「警察官隊墓地」は
斜面の下の、木々が鬱蒼と茂っている中だった。

104基の、高さ90cmほどの石塔が整然と並ぶ。お参りに来る人も無く、
ひっそりと佇む小さな墓碑に、涙がどっとあふれ出る。正面に横一列、
ひときわ大きな墓は「警部」クラス。一番左が、旧会津士「佐川官兵衛」
の墓だった。佐川官兵衛は、会津戦争で活躍「鬼官兵衛」とあだ名された。
その武勇を買われて、西南戦争で「警察隊の一等大警部」に採用され、
旧会津藩士300名を率いて参戦した。

私の母方の祖父の兄「山室五郎」も、佐川官兵衛に誘われて、警察隊に
応募し、佐川とともに阿蘇村で戦死したと思っていた。
その「山室五郎」の墓は、入り口から三番目にあった。

墓誌には
「警視局四等巡査 山室五郎 豊後口警視第二号第二番隊 小隊兵
 福島県士族 明治十年六月一日戦死 豊後国臼杵町 齢二十年八月」

山室五郎は臼杵町で戦死したのだ。しかも佐川官兵衛は三月十八日。
それから3ヵ月後。墓は、意外にも鹿児島県や山口県の人も多い。
むしろ福島県は13名で少ない。鹿児島県も14名いる。
山室五郎は薩摩人と共に、西郷軍と戦っていたのだ。

「“戊辰の復讐”と会津人が300名もこぞって西南戦争に参加した」と
いうのは「作家の史観」と、ネットに書き込みがあったのを思い出す。

あふれる涙に、息つまらせながら、『手向』を心静かに吹く。


⑨ 8/14 臼杵へ

2009-08-20 07:04:53 | H21. 8月 九州、中国地方への旅
午前中、県立図書館に行って、西南戦争関係の書を調べてみた。
「ある村の古老の聞き書き」に「警察隊の人たちは大金を持っていた。
お茶汲みをしただけで、女子供にも2円3円と小遣いをくれた。
戦死した人の懐には200円もあった」という記述を見つけた。
現在の米の価格で比較換算すると150万円くらい。当時の平均
月収は1円だったという記録もあり、大変な額だ。

私の頭の中で「会津戦争の死に損ないと“生き恥”を晒すよりは、
“戊辰の復讐!”の大義をかざして、死に場所を求めて行った」と
言われているが、そうではなく、戊辰戦後の生活窮乏から、
“生きるために”、高額の報酬を求めて、参加したのではないか。
警察隊への応募は“生きるため”だったのではないか」と、
考えが180゜変わった。


そこで、予定変更して臼杵まで車を走らせた。大分から臼杵まで
約30km。カーナビは狭い山道へと誘導していく。

ひと山越えて、臼杵の町にはいる。城もあり、武家屋敷も観光用に
残る風情のある町だった。

市役所観光課で、西南戦争に詳しい職員から説明を受けた。
薩摩軍は日向(宮崎)からも、この豊後臼杵に上ってきた。
当時、臼杵城は取り壊されていたので、警察隊と旧臼杵藩士族は
市内の大橋寺(だいきょうじ)を本陣(宿所)にしていた。そこへ
6月1日、薩摩軍が来襲し、警察隊と臼杵藩士族隊が散々に敗れた。
竹田の薩摩軍も臼杵まで来、山中で官軍と戦って勝利している。
西南戦争というと、熊本城の攻防と田原坂の激戦だが、反対側の
宮崎、大分でも激戦があったのだ。

なぜ臼杵なのか? 臼杵は港町だった。官軍の軍艦も来ていた。
山室五郎は、東京から船で小倉を経由し、臼杵まで輸送されて
きたようだ。薩摩軍は、その軍艦を奪おうとしたのか。
この頃まで薩摩軍が形勢有利だったのだ。

さまざまな思いを巡らしながら、臼杵の町を尺八吹いて廻った。
お盆休みで、店はすべて閉まっており、人影が全くない。どこへ
行ってしまったのだろう。お布施はゼロ。

再び、激戦のあったという山道を抜けて大分の護国神社にもどる。





⑩ 8/14 護国神社 みたままつり

2009-08-20 06:06:13 | H21. 8月 九州、中国地方への旅
8/14 夕刻 再び、大分市の護国神社を訪れる。
事前に手紙を送っておいたので、社務所の舎人が、
虚無僧姿の私を見て、すぐ宮司さんにとりついで
くれた。お盆の「みたままつり」で忙しいさ中、
客室に通され、宮司さんに面会いただいた。

神社の宮司というと近寄りがたい存在だが、実に
気さくな方だった。宮司も転勤があるようで、
熱田神宮で奉職したこともあるとか。

全墓誌銘が記録された「西南の役、百年のしおり」を
いただいた。そして 「5時から始まるみたままつりに
どうぞ、尺八を一曲を」とまで言っていただいた。

もう感激である。拝殿横の立派な能舞台で、先祖供養の
献奏をさせていただけるとは。
そして5時前、「神楽」が始まる前に、飛び入りの前座で
尺八を献奏。

「神楽」は5時から9時まで、4時間延々と続く。その
途中で、まだ15分も時間をいただいた。「一路オン・
ステージ」である。

そしてそして、社務所の中に入れていただき、寿司を
ご馳走になり、風呂場でシャワーまで使わせていただいた。
さらにさらに・・・である。もう宮司さんの厚情に感謝感激、
雨あられ。

私のお返しは、“晴れ男”だから、天気予報は連日「雨」
だったのに、12日の富津「夕涼みまつり」も、13,14,15の
護国神社の「みたままつり」も、昼に雨がパラついたが、
夕刻にはカラリと晴れたことか。

夜10時を過ぎて、竹田まで車を走らせる。雨が降りだす。
11日に竹田の岡城付近で、道路の崩落事故があり、
その道は通行止めとか。別ルートで竹田にはいる。

⑪ 8/15 南阿蘇村

2009-08-19 14:26:46 | H21. 8月 九州、中国地方への旅
深夜の岡城は真っ暗で不気味。城に通ずる道は狭く急坂。
途中で行き止まり。県道に戻って、竹田から阿蘇へと急ぐ。

カーナビが無ければ行かれなかった。途中で仮眠しながら、
早朝、阿蘇の外輪山を越え、カルデラ内にはいる。道は
右へ左へとナビが誘導してくれる。時折りものすごい雨。

でも、南阿蘇村に着いたときは晴れ上がっていた。
カーナビは「目的地周辺です、音声案内を終了します」で
プッツン。何本目かの交差点で、なにげなく左に曲がったら、
そこが「佐川官兵衛記念館」だった。

まだ朝7時前である。開いていない。そこで、また車を走らす。
じっとひところに留まっていられない性格なのだ。走って走って
数kmも走る。カーナビは「右だ左だ」とうるさい。「迂回して
戻れ」と指示しているのだ。音声の止め方がわからない。その
声に逆らってどんどん勝手に車を走らせた。すると、である。
「西南の役公園」の看板を見つけた。そこが、佐川官兵衛の
戦死の地だった。

まさに呼ばれたように、むやみやたらと車を走らせて、すんなり
目的地にまで導かれてきた。もう、神仏のお導きとしか言いようが
ない。

佐川官兵衛は、刀を振りかざして薩摩の敵将に一騎打ちを臨んだ。
そして敵将と斬り結ぶさなか、兵卒の銃弾に倒れた。
佐川官兵衛の碑の前で、尺八を献奏する。

⑫ 8/15 鬼官兵衛記念館

2009-08-19 13:35:24 | H21. 8月 九州、中国地方への旅
9時、そろそろよいかと、「佐川官兵衛記念館」にもどる。
地元の名士、興梠(こおろぎ)氏が私財を投じて、佐川官兵衛の
顕彰のために、ありとあらゆる関係資料を収集して展示して
いるのだ。

次々と車がはいってくる。こんなに観光客が訪れるのかと
思ったら、後でわかった。今日は興梠(こおろぎ)さん宅で
お盆の法事が予定されており、親戚一同が集まってこられて
いたのだ。
その忙しい中、興梠(こおろぎ)氏が出てこられ、熱心に早口で
説明してくださった。30分くらいと思ったが、法事が始まる
11時まで2時間、しゃべり続けている。「時間がなくて申し訳け
ない」と。法事の前に、申し訳ないのは私の方。

会津人でない人が、こんなにも強く、熱く、会津のことに思いいれを
持っていてくださることに、また涙があふれた。
興梠(こおろぎ)氏の元には、こうして私のように会津関係者が
次々と訪れている。会津若松市長も、歴史家も、「鬼官兵衛烈風録」を
書いた作家中村彰彦氏も、皆、興梠氏のもとを訪れているのだ。

西南戦争前夜、明治維新の急な改革に不満を持つ士族の反乱や農民の
一揆も起こった。地元阿蘇村としても、農民が西郷軍に呼応して一揆を
起こしている。農民の立場から見れれば、官軍は農民の敵だったろうに、
それでも佐川官兵衛を慕ってくれている。佐川官兵衛をこれほど有名に
したのは、興梠氏なのだ。その熱意には頭がさがる。

⑬8/15 耶馬溪から中津

2009-08-19 11:45:48 | H21. 8月 九州、中国地方への旅
阿蘇を西回りで半周し、玖珠を通って耶馬溪に抜けた。
心配した帰省返りの渋滞は無かった。

奥耶馬溪は実に見事な景観だ。山国川の両岸にはゴリラ岩とか、
屏風岩とかさまざまな奇岩が林立する。中国の南画のようだ。

途中、みやげ物店が10軒ほど立ち並び、広い無料駐車場があった
ので車を止める。すばらしい景観に魅せられて、虚無僧姿で
尺八を吹いて廻った。すると、各店でご喜捨をいただいた。
観光客もまばらで、売り上げも少ないだろうに、軒並みである。
「千客万来、商売繁盛、無病息災」を祈らずにはいられない。


羅漢寺にも行ってみた。急峻な巌谷の上にお堂が在る。よくぞ
こんな崖の上に立派なお堂が建てられたものだ。人間の力に
感心する。

夕刻6時に中津に到着。レンタカーを返し、不要な荷物を宅急便で
家に送り届ける。

そしていよいよ、本格的虚無僧の旅。
着物に帯、天蓋と偈箱に尺八一本あればいい。袈裟も替尺八も
下着も持たない。できるだけ軽装になって、中津市内を廻る。
福沢諭吉先生の生家記念館にも行ってみたが、閉館の時間。
ここは慶応中等部3年の修学旅行で来ている。

福沢諭吉を生んだ土地というプライドが高い町だ。
むべなるかな。『独立自尊』自分の生活費は自分で稼げ。人に
頼るなの福沢精神である。物乞いなど最も賤しむべき所業か。
それでも一軒の家で、お布施をいただいた。