現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

東条英機の家族愛??

2020-08-13 22:36:36 | 太平洋戦争

東条英機の孫娘東条由布子女史(1939年5月20日 - 2013年2月13日)が、祖父の復権を求めて言論活動を展開していた。

『祖父東條英機「一切語るなかれ」』『東條家の母子草』に続いて、『家族愛』春日出版。「東条英機の知られざる一面。軍人であり、首相であり、そして父であった東条英機の真実の姿」。

ムムムのム・・である。あの戦争で愛する家族を失った多くの人がいる。
その人たちはどのように受け止めるだろうか。私の母も怒っていた。

私の遠縁に中野正剛がいる。人気ブログラーの松岡正剛が「自分の名前(正剛)は、中野正剛にあやかって父が付けた」と述べている。
中野正剛は東条英樹の一党独裁を批判して投獄され、拷問を受けて、主張を取り下げ、釈放されたが、帰宅直後に割腹自殺した。主張を撤回したのは、東条から「息子を南方戦線に送ってやる」と脅迫されたためという。息子可愛さに、自説を曲げ、一死をもって東条に抗議したのだ。

中野正剛 - Wikipedia中野正剛 自決の謎/渡辺行男(著者) 通販 LINEポイント最大0.5%GET ...

東条の息子であり由布子の父英隆もまた、父とはソリが合わず、戦後、東条英樹が巣鴨プリズンに収監中、英樹から「会いたい」と云ってきた時、「なにをめめしい」と拒絶したそうな。
その娘の由布子が、祖父英機を「家族愛」の人と評価し、あの戦争を聖戦と認め、A級戦犯の靖国神社からの分祀に反対、「慰安婦の強制連行、南京大虐殺などは無かった」と、真正保守の立場をとり、中国、韓国の国民感情を逆撫でしている。
ネトウヨに同調する輩が増えていることに危惧を感じる。



A級戦犯として処刑された日本人の遺書 | けこですのブログ月刊Will 東條由布子さんの死を悼む | 日本人○荒川ヒロシのブログだぜ

 


坂本九逝って35年

2020-08-13 09:30:00 | テレビ・映画・芸能人
日航機の御巣鷹山墜落事故から35年。
あの日は、テレビに釘付けとなって ニュースを見ていた。

遭難者の中に「坂本九」が・・・・。
「上を向いて歩こう」や「見上げてごらん夜の星を」は、老人ホームでの定番だが、意外と歌詞は暗い。

 「上を向いて 歩こう 涙が こぼれないように
  思い出す 春の日 一人ぽっちの夜
  幸せは 雲の上に   
  涙が こぼれないように  
  泣きながら 歩く 一人ぽっちの夜」

 「見上げてごらん 夜の星を ぼくらのように 
  名もない星が ささやかな幸せを 祈ってる


まるで「坂本九ちゃんの追悼歌」だ。

坂本九は、飛行機は全日空と決めていた。大阪の招待者が、「全日空が満席だったので」と 日航のチケットを送ってきた。マネージャーは搭乗間際まで、全日空のキャンセル待ちに並んでいたという。何か予感されていたようにも思える。
 
 

「上を向いて歩こう」を作詞した永六輔、作曲した中村八大、歌手の坂本九。奇しくも「六、八、九」と数字が付く。「七」がない。

レコーディングの時、九ちゃんの「ウヘホ ムフヒテ」と独特な歌いまわしに、永六輔は「なんだ、その歌い方は!」と激怒したそうな。これは母が歌っていた小唄の真似とか、プレスリーやバディ・ホリーの影響とも。

この変な発声で、発売当初は不評で「レコード大賞」の候補にも上がらなかった。それが欧米での大ヒットとなる。

きっかけは、1962年、イギリスのディキシーランド・ジャズのトランペッター、ケニー・ボールが演奏し、「SUKIYAKI」というタイトルで発売、全英チャートで10位にランクインした。

ケニー・ボールは「上を向いて・・・」ではタイトルが長く、意味も不明で、知っている日本語は「SUKIYAKI」と「SAYONARA」ぐらいだったので「すきやき」になったとか。「さよならソング」でも、歌詞にはピッタリだったかな。

ところで、永六輔のラジオ番組、桃屋の提供の「誰かとどこかで」は、1967年以来、12,000回を超えた長寿番組だった。
そのオープニングの曲は村岡実の尺八で「どこか遠くへ」だった。独特のビブラートの村岡節。7孔尺八で尺八界に革命をもたらした異端児。美空ひばりの「柔ら」をはじめ、3000曲もの演歌に尺八を吹き込んだという村岡実も84歳で亡くなった。その時、訃報はどの新聞にも載らなかった。さびしい限り。






戦争反対はイケン?

2020-08-13 08:46:12 | 地球人類の問題

演劇や歌、舞踊の芸術の分野で、「戦争反対、
世界平和を希う」ことは、絶対的な善と思って
きたが、そうでないらしい。
「平和を希う」メーセージをいれた二つの企画
が、名古屋市の『後援』を拒否されたという。

「改憲」か「護憲」か、政治的に拮抗している
問題について、その一方に「後援」するのは
中立性を欠くというのがその理由。

公務員は「憲法を守る義務」があるのに、「護憲」
運動には手を貸してはならないというのだから、
世の中おかしくなってきた。


だんだん太平洋戦争前夜に似てきたとの指摘も。





わらわし隊

2020-08-13 08:44:51 | 地球人類の問題

8/11 NHK「ドキュメンタリー 戦場の漫才師たち ~わらわし隊の戦争」

「荒鷲隊」をもじって「笑わしたい」とは すばらしい!

エンタツ・アチャコや柳屋金語楼、そして紅一点ミス・
ワカナなど、吉本興業の芸人たちによって編成された
戦中慰問団「わらわし隊」。

昭和13年から19年頃まで、日本軍の侵攻直後の南京、
上海、そして漢口で……。明日をも知れぬ兵隊さん達に、
「笑い」を提供した「わらわし隊の戦争紀行ドキュメン
タリー」。父も見ていたかもしれない。

今夜10:00~10:50 総合 ぜひ見てみよう。


渋沢栄一の書 

2020-08-13 08:38:40 | 社会問題

わが家に渋沢栄一の額があった。「“青淵”の
号は渋沢栄一」と、子供の頃から聞かされて
いたが、何とか書かれているのか読めなかった。
「位養」とあるが、「位」の中にもう一本ある。
先日実家に帰って確認してみた。母はさすが、
「位」は「徳」の草書体だと。「徳を養う」と
教えてくれた。

私は、子供の頃から、渋沢栄一の書「徳養」を
見て育ったのであるが、毎日見ていても、見えて
いなかった。今になって漸く、見えてきたのだ。
「徳」の大切さを。高度成長期に「徳」は儒教的、
「かび臭いもの」と退けられてきたが、仏教の
「徳積み」にもつながる。虚無僧は、人々に
「徳積みの心」を呼び覚ます対象として存在する
のだ。自ら徳を磨かなければならないことを。





「はだしのゲン」の売れ行き好調

2020-08-13 08:29:43 | 社会問題

「はだしのゲン」が売れているとか。今回の騒ぎで一儲けしたのが
出版元。世の中、いつ何でブレイクするかわからんもんです。

ブログで見つけました。「蟷螂亭日記」
私のブログと壁紙まで同じ、内容も同感ですので 概略 転載させて
いただきます。

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「はだしのゲン」が「少年ジャンプ」に掲載されていたのは
知っていたが、内容もおもしろくなく、絵も下手だったので、
読まなかった。私だけでなく、読者全般に不人気で、たびたび
「連載中止」の話があったし、人気を得るために過激なシーンを
雑誌社の意向で入れているという噂も聞いていた。

そんな作品が今話題になっていると聞いて、正直驚いた。
まず学校の図書館にこの作品が置いてあること自体が
驚きであった。更に驚いたのは学校の副教材として授業に
使われているということ。誰が考えてもオカシイに
決まっている。

この作品はジャンプでの連載打ち切りの後、共産党の機関紙やら
日教組の機関紙で描き継がれた。売れない漫画家が、左翼の
プロパガンダに協力して描いた漫画だった。

学校の図書館に置かれ、授業の副教材として使われたのも
日教組の左翼教師が行った結果なのである。

だから、出雲市はじめ各地でこの漫画の図書館での閲覧制限を
設けることは理解できる。建前上、過激な描写を問題にしているが、
「天皇の戦争責任」「卒業式で『君が代』を歌うことの拒否」に
言及している以上、学校の図書館に置くべき本ではない。

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私も同感です。しかし、こうした意見は少数派で、「天皇制批判」
「卒業式での『君が代』反対」が露骨に描かれていながら、
この本の「閉架」措置に反対する声が多いことは意外でした。

右傾化への反動でしょうか。参院選でも共産党が躍進しましたね。
私も「赤旗」をとってますが・・・・。「憲法改悪」「原爆・原発」には
反対ですが、「『君が代』反対」には 反対です。


沖縄戦を生き残って、今なお屍とともに

2020-08-12 14:01:53 | 太平洋戦争

今なお、屍とともに生きる(沖縄戦、嘉数高地から糸数アブラチガマへ)日比野勝広」という本をいただいた。
(発行:夢企画大地 名古屋市東区 052-712-0706 )

内容は、沖縄戦で負傷し、ガマ(洞窟)の中に置き去りにされ、3か月も暗闇の中にとじこめられながら奇跡的に助かった日比野勝広さんの回顧録だが、4人の娘さんたちがそれぞれに戦後の父の生き様を書き綴っている。
娘たちの視点で書かれているということが、話題になって、TVでもとりあげられた。わずか140ページ。ぐいぐい引き込まれてイッキに読んだ。

日比野さんは沖縄線で負傷し、ガマ(洞窟)の中に置き去りにされた。

暗闇の中で半年。死体と汚物と蛆。言語に絶する壮絶な地獄から奇跡的に生き残った日比野さんは、戦後、戦友の遺族を訪問し、友の最期の様子を伝えようとするが、遺族からは
「なぜあなただけ助かったのか」と責めたてられる。
「逃げたのではない、置き去りにされたのだ」という心の葛藤に苦しめられ。戦後60余年を経てもまだ夜の闇をこわがり、夢にうなされるという父親の姿を見て育ってきた娘4人。それぞれの父への思いが また感動を呼ぶ。

昭和39年東京オリンピック、「もう戦後は終わった」と叫び、国旗日の丸」を掲げようという愛国運動が起きる。町内回覧で国旗の斡旋があったが、日比野家だけは買わなかった。
「うちは貧乏で買えないのだ」と思い続けていた四女。後になって母から「日の丸を振って送り出した人が みな帰ってこなかった。だから日の丸を見ると悲しくなる」と聞かされる。母には、父との結婚前に婚約者がいたのだ。その人を日の丸の旗を振って送り出した。そして帰らぬ人となったのだった。


慰問団団長の首切り

2020-08-12 13:52:27 | 太平洋戦争

8月15日 終戦記念日。戦後70年を過ぎて、今まで堅く口を閉ざしていた元兵士たちが、重い口を開くようになった。

父の『従軍記』に、とんでもないことが書かれている。

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慰問団の団長が「戦地のみやげに是非(首切りを)やらせてくれ」という。彼は軍医だと言った。軍刀を携帯していた。
○○中尉が捕らえておいた密偵を引き出してきた。まだ少年だった。少しも騒ぐことなく、静かに頚を伸ばした。
「エッ!」と気合もろとも、団長は見事に切った。首は、前に掘ってある穴の中にドサッと落ちた。“泰然自若、従容として死につく”とのほめ言葉があるが、この少年は全くその通りだった。感心した。云々
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このことは公表したくなかったが、NHKの『わらわし隊の戦争』で三味線漫談家玉川スミさんの証言がなまなましく語られていた。
「切り口はレンコンの孔のよう。映画などでは、すぐ血が吹き出るが、すぐには血は出ない。30秒ほどしてブァーと出てくるの」と。
NHKで ここまで放送していいのかと驚く内容だった。

玉川スミさんも見たというのだから、慰問団団長などが“土産話”に“首切り”なんて、何件もあったのだろう。とんでもない話だ。

ミス・ワカナが戦争の現実を見て、次第に心を病み、ヒロポンに溺れたというのも判る気がする。



「慰安所設立」は主計の手柄?

2020-08-12 13:49:08 | 太平洋戦争

中曽根康弘元首相が、『終りなき海軍』(松浦敬紀・編/文化放送開発センター/1978)に寄せた一文が 問題になった。

「海軍主計士官」だった中曽根が、インドネシアの設営部隊の主計長だった時の自慢話。

「三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。

そんな彼らのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある。彼らは、

ちょうど、たらいのなかにひしめくイモであった。卑屈なところもあるし、ずるい面もあった。

そして、私自身、そのイモの一つとして、ゴシゴシともまれてきたのである」と。

 

1978年当時は「慰安所」のことなど、公然の恥部で、後に問題になるとは思って いなかったのだろう。

実は私の父の『従軍記』にも同様の記述がある。

父は陸軍の主計少尉で、中曽根氏同様、2000人の部隊の食料調達や衣料物資等の補給にあたっていた。慰安所の設置は「広西省・羅城」でのこと。

 

「昨年五月、武漢地区を出発して半年。長かった湘桂作戦もようやく終わったという感が深かった。長く駐留するとなると、治安上からも慰安所が必要でないかと大隊長に相談して開設することになった。まず村長に適任者の差出しを命じた。

彼は後家と出戻りの二人を連れてきた。他方 私は 范(中国語の通訳)を連れて 宜山の難民区に行って勧誘した。范の説得がきいて三人と話が決まった。美人だった。羅城に連れてきて、まず風呂に入れて洗った。これが大変な騒ぎ。次いで軍医に検診してもらいOKとなったので開設開店した。

兵隊からは形ばかりの料金をとった。この金は部隊の別途会計。(勿論兵に還元するように使ったが)。押すな押すなの大盛況、大好評だった。

主計多しといえども Pヤ(? 売春宿の隠語か)のオヤヂまでやった者はそうおるまい。羅城は桃源郷。他の部隊から多いにうらやましがられた。

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さてさて、応募してきた女性は、文面では合意の上のようだが、日本軍の申し出に抵抗できない環境ではあったろう。そして、「大隊長の許可を得てはいるが、一主計の計らいでおこなった」ことは、軍隊の関与となるのか問題となるところ。

 

 


「慰安婦」の募集と管理は?

2020-08-12 13:38:36 | 太平洋戦争

戦争中にビルマとシンガポールの慰安所で働いた朝鮮人男性の日記が、韓国で見つかった。

慰安婦の徴集に当たった部分の記載は欠落?しているが、日記を発見したソウル大学のA教授は、「朝鮮半島では、慰安婦の募集は業者が行っていて、軍が強制連行することは基本的にはなかったはず」との見解を示しているとのこと。

ただし、日記には「航空隊所属の慰安所2カ所が兵站(へいたん)管理に委譲された」なった」などという記述があり、慰安所や慰安婦と軍との関係が示されている。

また「慰安婦たちが映画を見に行ってきた」とか「慰安婦に頼まれて、600円を本人の貯金から引き出して、中央郵便局から(親元へ)送った」などという記述もある。

このことからも、慰安婦・慰安所は、強制連行された性奴隷というほどの過酷なものではなく、当時一般的に容認されていた性風俗の範囲内との印象が濃い。

私の父の『従軍記』にも「慰安所の設置」に関する記述がある。将兵の“養生?”のために「慰安所」の設置は 主計の役目で、軍隊に出入りしている“おやじ”夫妻に「慰安所の設置と娼婦の募集」を依頼している。その慰安婦の募集には、中国人を同行し、村々を廻って説得の上、連れてきている。

娼婦たちは、自ら応募してきたことになっていて、彼女たちは(お金のために?) 嬉々として 兵隊さんに奉仕しているようなニュアンスである。

前述の日記でも「600円を送金」とは、大変な額だ。

日本政府は、「慰安所の設置と運営管理には軍隊が関与していたことは認めるが、人集めは“民間業者”に任せてあって「軍が強制連行した」ということはみられないという見解を保持している。


ましかし、グアムなどでは、「兵隊が来て、強制連行された」と言う証言があり、その兵隊は、戦後、戦犯で処刑されている。