先日行った法起院西国三十三所巡礼の開基者が眠るの境内で、
この多羅葉、葉の裏に先の尖ったもので字を書くと
「季節の花」より借用
ペンを使わなくても、字が書ける。
「葉書」の語源は「葉に書く」ことに由来するのだとか。
多羅葉の葉に文字を書いて手紙を送る習慣は
戦国時代にはすでに行われていたという記録が残っているらしい。
多羅葉のこと調べていて意外だったのは、
中国では「苦丁」と呼ばれていて、
葉を煎じて飲用にしたのが苦丁茶
だそうで、字のごとく、とても苦いお茶なんです。
中国茶やってた私ですが・・・・・・・知らなかった
後日、もう一つ紹介。乞うご期待を。
長谷寺の参道から少し入ったところにあり、
西国観音霊場の開基者といわれる、
が、余生を過ごした、
番外の法起院。
病で仮死状態になった上人が、
夢の中に現れた閻魔大王から
「世に苦しみ悩む人々を救うため、
三十三か所の観音霊場をつくり、参拝を広めよ」と言われ、
起請文と33の宝印を授かり、
仮死状態から復活したのだそう。
上人は畿内に33の霊場を設け、巡礼を広めようとした。
それが、718年(養老2年奈良時代)。
しかし、人々に受け入れてもらえず、宝印を中山寺の石窟に納めて、
機が熟するのを待ったのだそう。
その宝印を約270年後に見つけ出したのが花山法皇西国番外 元慶寺。
名 称 法起院(番外)
山 号 豊山
宗 派 真言宗豊山派
本 尊 徳道上人像
創 年 735年(天平7年奈良時代)
開 基 徳道上人
御詠歌 極楽は よそにはあらじ わがこころ おなじ蓮の へだてやはある
所在地 奈良県桜井市初瀬
巡礼日 H29(2017)6.16
境内に珍しい木があって、後日紹介・・・・・・・お楽しみに!
この登廊(のぼりろう)、平安時代の1039年に
春日大社の社司中臣信清が子の病気平癒のお礼に造ったもので、
下・中廊は明治27年に再建。
また、登廊周辺はボタンが植えてあり、春には大輪の花が咲き誇り、
ボタンの寺として名高い。
ホームページより
本堂は国宝で、1650年に徳川家光より寄進され、
初瀬山の中腹の断崖絶壁に懸造り(舞台造)で造られている。
ホームページより
特別拝観期間だったので、
11m余りある大きなご本尊の十一面観世音菩薩像の足元まで行けて、
拝観することができて、ラッキー!
名 称 長谷寺(西国三十三所第9番)
山 号 豊山(ぶざん)
宗 派 真言宗豊山派(総本山)
本 尊 十一面観世音菩薩(10m18cm)
創 年 686年(朱鳥元年飛鳥時代)
開 基 徳道上人(道明上人が天武天皇の病気平癒を祈願し、
銅版法華説相図を安置したのが始まり)
所在地 奈良県桜井市初瀬
拝観日 H29(2017)6.16
長谷寺は万葉集に「隠国(こもりく)の泊瀬(はつせ)山」と詠まれ、
また、古今集や源氏物語など多くの古典に登場しているのだそう。
「隠国」は泊瀬山にかかる枕詞。
『隠国の 初瀬の山の 山の際(ま)に いさよふ雲は 妹にかもあらむ』
この歌は妻を泊瀬山に火葬した時、柿本朝臣人麻呂が詠んだ歌だそう。
意味は
「瀬の山々のあたりにいつまでも去りやらずにいる雲は
あれは妹のかわった 姿でもあろうか」
奥さんを亡くされた海老蔵さんの心境や
亡くなった麻央さんのさりがたい思いに重なるなぁ・・・・・・・・・。
先月の初め、快慶展を観に行った時、
特別開扉していた北円堂は見て来たばかり。
昨年の巡礼の時、
三重塔と五重塔(どちらも国宝)の
同時開扉(同時はこの時が初めて)をしていて、
三重塔だけは拝観してきた。
三重塔と五重塔を共に有しているのは興福寺だけだそう。
興福寺は天智8年(669年)、藤原鎌足の病気平癒を願い
妻の鏡女王が山階寺を建立したのが始まり。
藤原不比等が平城遷都にともない寺を移転し、
興福寺と改名されたのだそう。
その境内にある、
西国第九番所の南円堂。
八角円堂で、八角は観音菩薩の浄土、
補陀落山の山の形に由来するのだそう。
名 称 興福寺 南円堂(西国三十三所弟9番)
山 号 なし(飛鳥・天平時代に建立された ※ 南都七大寺には、
山号がないのだそう・・・・・・なぜだろう?)
宗 派 法相宗
本 尊 不空羂索観世音菩薩(国宝 康慶作)
創 年 813年(弘仁4年平安時代)
開 基 藤原冬嗣(父親の追善供養のため建立)
所在地 奈良市
拝観日 H29(2017)6.16
興福寺の伽藍の中でも最も重要で中心になる、
中金堂が再建中で、来年落慶予定だそう。
是非、見に行きたいと思っている。
※南都七大寺とは
東大寺・大安寺・西大寺・興福寺・法隆寺・薬師寺・元興寺