「ヘンリー・ダーガー - 夢の楽園 - 」 原美術館

原美術館品川区北品川4-7-25
「ヘンリー・ダーガー - 少女たちの戦いの物語 夢の楽園 - 」
4/14-7/16



前々から見たいと思っていた展覧会でしたが、会期末になってようやく行くことが出来ました。その一生涯を「非現実の王国」をはじめとする独自の物語世界の『構築』に傾けた、ヘンリー・ダーガー(1892-1973)の回顧展です。初期コラージュから戦争や楽園イメージのドローイングなど約50点にて、ダーガーの残した膨大な物語の一端を概観します。

まずは、一階入口すぐの所に展示されていたコラージュ、「The Battle of Calverhine」(1929)からして圧倒的です。雑誌や新聞より切り抜かれた少女の写真やイラストを執拗に貼り合わせ、茶色にくすんだ油紙の巨大な画面へさながら少女戦争絵巻とでも言うような一大スペクタクルを展開させています。不気味な微笑みをたたえた少女や、銃を構えて勇ましく行進する兵士の報道写真などの交錯する様子を見ると、ここにはまさしく後に絵画として展開されたダーガーの物語世界のエッセンスが詰まっているように感じられました。19歳の頃より始められたというダーガーの物語制作が、いよいよ絵画として表現されるのはもう間もなくのことなのです。

1930年代より絵画化された、「非現実の王国として知られている国の、ヴィヴィアンの少女たちの物語。あるいは子供奴隷の反乱が引き起こした、グランデーコ=アンジェリニアン戦争の嵐の物語」が展示の核心です。ここでは先のコラージュでも登場した5歳から7歳程度の少女が、彼女らを狩ろうとせんばかりに攻撃する兵士たちと逞しく闘っていました。少女たちは時に全裸で、また男性器をつけているという倒錯的な姿をしていますが、さながらクローンのように増殖する彼女たちの群れはいつしか戦いを制覇し、次の「夢の楽園」へと進んでいきます。そこでは多くの少女が、花と蝶に包まれた『楽園』にて何やら神秘的とさえ感じる一種の集団生活を行っていました。花には無数のドットがのぞき、体だけは大きく描かれながらも決して成長はしない少女たちが、無邪気に座ったり笑ったりする光景が描かれています。

戦争も楽園の光景も、終始、ほぼ同じように用いられるパステル調の色彩によって淡くまとめられています。つまりは絵本のような、一見優し気にも見える表現の中に、殺戮と平和がそれこそ平等な形で描かれているわけです。ダーガーの中では死の世界さえもパステルカラーの中にあります。だからこそ不気味な感触がこちらへ迫り来るのかもしれません。

ダーガーがいわゆるアウトサーダー・アートの作家として位置付けられていることに異論を挟むつもりはありませんが、この閉ざされた物語絵巻へ傾けられた(と言うよりも、むしろ逃れられなかったとするべきなのでしょう。)制作の痕跡は、彼がそのような画家であると知らなくても『見せる力』を感じさせるものだと思います。この種のアートに見る特徴こそ確認出来るにしろ、そもそも『楽園』などに普遍性を求める必要はありません。ダーガーの『夢』が作品という形をとって我々の現実になったことに意味があるのです。

ターガーの描いた残虐なシーンがほぼカットされていたのが残念でしたが(*1)、また別の場所で補完されるのを気長に待ちたいと思います。

「ヘンリー・ダーガー 非現実の王国で/作品社」

明日までの開催です。今更ですがおすすめします。(7/14)

*1 拷問や殺戮といった残酷な情景も数多く描いたダーガーですが、本展は、無邪気に遊ぶ楽園のイメージを中心に構成します。(展覧会パンフレットより。)
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「小谷元彦 『SP2 New Born』」 山本現代

山本現代新宿区西五軒町3-7 ミナト第3ビル4階)
「小谷元彦 『SP2 New Born』」
6/30-7/25

原点に立ち戻って彫刻制作を再開させたという(画廊HPより一部引用。)小谷元彦の、約3年ぶりとなる新作彫刻展です。



暗がりの展示室にて並ぶのは、まるで生クリームを塗り立てたかのように滑らかで白く、また骨ともシダの葉とも言えるような細部の連なるオブジェの数々でした。それらは「pig」や「viper」、さらには「mouse」などの名前が与えられていますが、実際には何の生物なのかが分からないような、半ば抽象とも言える謎めいた形をしています。刺々しい触覚がのびるムカデやウロコの隆起する巨大な龍、さらには食虫植物の巨大な花なども連想させました。そのイメージは奇怪でかつ深淵です。

殆ど執拗なまでに精密に象られた細部、または全て白という統一感のある色の妙味、さらには一見シンプルでありながらも複雑怪奇のモチーフの面白さなどに見入りました。スポットライトに煌煌と照らされて浮き上がるオブジェを眺めていると、どこか太古の生物の化石を見ているような錯覚さえしてきます。

今月25日まで開催されています。これはおすすめです。(7/7)
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「高谷史郎 - photo-gene - 」 児玉画廊

児玉画廊新宿区西五軒町3-7 ミナト第3ビル4階)
「高谷史郎 - photo-gene - 」
6/30-8/11

流れ行く雲の中へと誘われていくような感覚を味わいました。児玉画廊で開催中の高谷史郎の個展です。



真っ白な展示室の中で交互に並んでいるのは、ステンレスフレームへおさめられた約1メートル四方の写真と鏡です。写真には今にも雨粒が落ちてきそうな、軽やかでありながらもしっとりとしたグレーの雲が捉えられていますが、それが銀色にも照る鏡へと反射して美しいコントラストを描いています。その組み合わせは巧みです。

雲はシュワシュワと音を立てるかのように広がり、そして浮遊して流れているようにも見えました。また、その向こうにある見えそうで見えない青空が、仄かに滲み出しているように思えてきます。写真でありながら、不思議と雲を映した映像を見ているような気持ちにもさせられる作品です。

統一感のある色の力もあるのかもしれません。シルバープリントと鏡の質感が美しく調和していました。梅雨空の今の時候に見るのにピッタリな展覧会ではないでしょうか。

8月11日までの開催です。(7/7)
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「加藤泉『黙』」 高橋コレクション

高橋コレクション新宿区西五軒町3-7 ミナト第3ビル3階)
「加藤泉『黙』」
6/30-8/4

高橋コレクションで開催中の加藤泉の個展です。木彫3点、ドローイング4点にて構成されています。



オブジェと絵画の織りなすインスタレーション空間がまた優れていました。計三点のうち二点は床に寝転んでいましたが、その一つは両足を後ろへ蹴り上げ、手をバタバタとも振り上げながら、何やら滑り込んでいるかのように腹這いになっています。そしてもう一点は、顔を横にして耳を床にぴたりとつけ、何かを聞いているかのような仕草を見せているのです。またお尻からは巨大な白い蕾みが膨らんでいました。この不可思議なモチーフは相変わらずです。

ドローイングも充実していました。そのじっとこちらを見つめているような表情を見ると、やはり見ると言うよりも見られている感覚を強く味わいます。そう言えば、寝そべり、また壁に寄りかかる木彫たちも、ちょうど遊び戯れる最中に入ってきた鑑賞者、つまりは私を振り返ってキョトンとするかのような表情をしていました。もしかしたらここは、彼らだけの知る楽園なのかもしれません。だからこそ踏み込んできた私を、いささか邪魔者扱いをするかのように、若干の距離感を置いて眺めているのです。

8月4日までの開催です。(7/7)
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「宮永愛子 - 岸にあがった花火」展 すみだリバーサイドホール・ギャラリー

すみだリバーサイドホール・ギャラリー(墨田区吾妻橋1-23-20 墨田区役所1階)
「宮永愛子 - 岸にあがった花火」展
6/16-7/15



ナフタリンを用いたアートを手がける現代美術家、宮永愛子の個展です。会場のすぐそばを流れる隅田川もテーマに、時とともに移ろうものの儚さや美しさを表現します。

(*)

まずはそのナフタリンによるオブジェ、「貴族的なピエロ」が美感に優れています。アクリルケースの箱へ大切におさめられていたのは、ナフタリンによって象られた靴や時計、それにネクタイなどの装身具でした。それはどれも制作当初は確かな形を持っていましたが、展示期間中に進むナフタリンの気化によって徐々に崩れ、今では殆どその残骸を見るにとどまっています。ちなみにこれらは、実際に使われていたものから型をとって作られたものです。展示の最後には、形をとどめることなく消滅してしまうのかもしれません。まさに時の移ろいを感じさせる作品です。



隅田川と関連のある作品では、展覧会のタイトルにもなった「岸にあがった花火」が充実していました。これは、二つの白いパネルの間に無数の糸を直線的に張り巡らせたインスタレーションで、その糸に吾妻橋のたもとの川底より採取した塩の結晶が織り込まれています。糸はパネル内にて二層の面を作り出し、一方をまるで波のように力強くせり上げていました。また、その糸の下を身を屈めて進むことも可能です。さながら水中をもぐっているような感覚が味わえます。

古びた陶器の器の並ぶ「そらみみみそら」は、視覚ではなく聴覚に訴えるインスタレーションです。この界隈の住民が持ち寄ったという茶碗へしばらく耳を傾けていると、どこからともかくパチパチという音が聞こえてきました。これは宮永が陶器へかけた水色の釉薬の割れる音だということですが、当然ながら音の出るタイミングはとてもランダムで、回数も決して多くはありません。ここはじっくり構えて楽しみたいところです。(私は偶然にも聞くことが出来ましたが、実際には30分ほど待っても音が出ない場合もあるそうです。)

合わせて展示されているルオーとの関係云々については説得力に欠けていましたが、崩れ去りつつあるものに見る美意識は、まさにタイトルにある「花火」に通じるものがあります。「アサヒ・アート・フェスティバル2007」の一環の展覧会です。隣接のアサヒビール本社ロビーにも数点の展示があるので、見逃されないようにご注意下さい。

入場は無料です。今月15日まで開催されています。(7/7)

*「ばら色の踊り子」(2004):展示されている作品とは異なります。
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「ヨーゼフ・ベルンハルト『鳥たちの家』」 ギャラリー・エフ

ギャラリー・エフ台東区雷門2-19-18
「ヨーゼフ・ベルンハルト『鳥たちの家』」
7/6-16



主に鳥をモチーフにして生と死との境界線を問う作品を発表している(画廊HPより引用。)という、ヨーゼフ・ベルンハルト(1960~)の個展です。趣き深い木造土蔵の空間が、鳥たちの一種の終焉の場とも化していました。これは不気味です。

まず目に飛び込んできたのは、土蔵の壁にペタペタと張られた鳥の拓本でした。赤などの鮮やかな色に象られた鳥の死骸が、拓本と言う形にて無数に「保存」されています。羽を拡げて空を飛ぶかのような姿をとる鳥は、もはやこの拓本の中でしか生きることを許されていないのでしょうか。儚いものです。

はしごをあがった二階では、鳥の生態を記録したという映像作品が展示されていました。籠の中に入れられた一羽の鳥が、時に羽をばたつかせ、またカリカリと音をたてながら右へ左へと動く様子が捉えられています。それをしばらく眺めていると、何やらこの土蔵の展示室が牢獄のようにも思えてきました。鳥はこの作品に見るカゴと映像作品自体、さらにはそれを囲む今回の土蔵、つまりは三重に閉じ込められているのかもしれません。慌てふためいたように動く鳥の動きを見ると、こちらまでが不思議な焦燥感に駆られてしまいます。

囲炉裏風のスペースにかかる、一枚の鳥の羽が印象に残りました。ベルンハルトは動物の死を極めてストレートに捉える作業を試みているようです。作品集には、直視するのも憚れるような動物の死骸の写真がいくつも掲載されていました。

画廊ではこの展覧会を「木造土蔵作りの静謐な空間を鳥たちの楽園に見立ててインスタレーションを展開する。」と紹介していましたが、これのどこを「楽園」と見れば良いのでしょう。生々しいまでの死を強く印象付けられる展示でした。

今月16日までの開催です。(7/7)
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伶楽舎 「吉松隆:夢寿歌」他

伶楽舎第八回雅楽演奏会「伶倫楽遊」

管絃 「太食調調子」/「朝小子」/「輪鼓褌脱」 
舞楽 「還城楽(左方)」
吉松隆 「夢寿歌」 op.100

演奏 伶楽舎

2007/7/1 14:00 紀尾井ホール2階



吉松隆の記念すべき第100作目は、伶楽舎の委嘱による雅楽器を用いた「夢寿歌」(ゆめほぎうた)でした。雅楽演奏では定評のある伶楽舎のコンサートです。

今回の「夢寿歌」は、今から10年前の1997年、国立劇場の委嘱によって作曲された「鳥夢の舞」に次ぐ、吉松隆の雅楽作品の第2作目です。(初演は同じく伶楽舎。)「良い夢を見たことを愛でる歌であると同時に、悪い夢を見た後、それが夢だったことを寿ぐ舞歌。」(*)というコンセプトを、いわゆるセレナード形式の全5楽章にて実現します。各楽章の表題は以下の通りです。

1「夢舞」(ゆめまい)
2「風戯」(かぜそばえ)
3「早歌」(はやうた)
4「静歌」(しずうた)
5「舞人」(まいうど)

吉松の音楽は雅楽においてもやはり情緒的です。ここでもいわゆる調性のない「ゲンダイオンガク」的な部分を押しのけて、殆ど愚直なまでにメロディーを追求し、ある意味で雅楽よりも古典的とさえ思うような音楽を作り上げていきます。以前、伶楽舎にて武満の「秋庭歌一具」を聴いた際にも少し感じた、雅楽と西洋音楽的語法との間にある一種の齟齬は、吉松の得意とする哀愁に満ちたフレーズを聴くとさらに不気味なほど増幅しました。特にそれは第3楽章の「早歌」に顕著です。アレグロで駆け抜けるテンポの良い音楽は、もはや雅楽に親しむ方が眉をひそめそうなほどその世界観を簡単に壊していました。もちろん、そこに吉松音楽に特有の魅力があるわけです。雅楽を利用して、あえて雅楽でない世界を古典的な語法で表現することに何の問題もありません。雅楽がツールとなり、その上にて作曲家の音楽観を聴くことが出来るのは、とてもスリリングな体験だとさえ思います。

さて休憩前に演奏された二曲では、「蛇を好んで食す西域の人が蛇を見つけて喜ぶ様を舞にした」(*)という舞楽「還城楽」が印象に残りました。途中、黒子によって運ばれてくる蛇の置物を、赤々とした衣装に身を纏う舞人が、舞台を縦横無尽に動きながら力強く対峙していきます。特に心にとまったのは、おっかなびっくりしながら、まるで蛇を腫れ物に触るように見る舞人の滑稽な様子です。繰り返される所作とミニマル的な伴奏がそのドラマを印象深く伝え、蛇を見事に見つけて喜んで帰る時には、思わずこちらまでが嬉しく思ってしまいました。迫真の演技です。

「武満徹:秋庭歌一具/伶楽舎」

音響に定評のある紀尾井ホールで聴く雅楽もまた新鮮でした。通常、空気へ染み入るように音の消える雅楽器が、反響板の力を借りて「渦」をつくりながら力強くまとまっていきます。笙の存在感がさらに増していたようにも感じました。

雅楽にもお詳しいTakさんが、コンサートの前半部についてまとめておられます。そちらも是非ご参照下さい。

「伶楽舎第八回雅楽演奏会「伶倫楽遊」」(弐代目・青い日記帳)

(*印はともにコンサートパンフレットより引用。)
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「パルマ - イタリア美術、もう一つの都 - 」 国立西洋美術館(Vol.2・スケドーニ)

国立西洋美術館台東区上野公園7-7
「パルマ - イタリア美術、もう一つの都 - 」
5/29-8/26

「Vol.1」より続きます。国立西洋美術館で開催中のパルマ展です。「Vol.2」では「奇才」(展覧会公式HPより。)とも称される、バルトロメオ・スケドーニ(1578-1615)の油彩作品、特に印象深い2点について触れたいと思います。

本展覧会にて紹介されているスケドーニの油彩画は以下の5点です。

「ヴィンチェンツォ・グラッシの肖像」(1610-15年頃)
「慈愛」(1610年以降)*
「聖ペテロ」(1611年頃)
「聖パウロ」(1611年頃)
「キリストの墓の前のマリアたち」(1613年頃)

*ナポリ、国立カポディモンテ美術館所蔵のオリジナルの模写とされる。スケドーニの自筆かどうかは不明。



まずは、画家の代表作としても名高い「キリストの墓の前のマリアたち」(1613年頃)が非常に印象的です。強いスポットライトを当てたように輝く光と、その一方での沈み込むような深い闇との対比、または眩しいほどに煌めく白をはじめとした色の力強さ、さらにはまるでストップウォッチで時間を止めたかのような劇的で動的な人物の描写が、不思議にも全体としては驚くほど静謐に調和しながら示されています。石棺より飛び出し、天を指しながらイエスの復活を告げる天使は一点の澱みもないほど美しく、肩に強い光を浴び、ブロンドの髪を流麗に靡かせてその姿を見入るマリアも実に清らかな姿を思わせていました。また、黄色の衣服を纏う手前の女性の左手は、今にもこちらに飛び出してきそうなほど立体的に描かれています。細部へ近づいて見ると、その描写は精緻というよりも大胆でかつ平面的で、絵具の塗りは粗いとさえ思うほどですが、むしろそれが斬新で効果的なコントラストを生み出すことに繋がっているようです。単純化された色遣いが、各人の内面を表すように一種、記号化されています。そこにどこか現代的な感覚を見るのかもしれません。ともかく、今より400年前のものには到底思えないような作品です。



スケドーニの自筆かどうか確定していない「慈愛」(1610年以降)は、たとえこれが彼のものでなくても素晴らしい作品であることには変わりないと思います。陰影の見事な白とピンクの衣服に身を纏った女性が、見るからに貧しい二人の少年にパンを分け与えていました。ここではまず、その施しを与える女性の清楚な横顔にも見入るところですが、やはりこの作品の主役は、女性の連れた身なりも立派な子どもと、全く対照的な姿をとる長い杖をついた盲児の二人です。盲児は一見、虚ろで覚束ない表情を見せていますが、まるで何かに呼ばれたかのように上を向いて目を開く様子には、境遇こそ不憫であれども、どこか彼自身の逞しい生命感を見る思いがします。そして一方でこちらをジロリと見つめる少年は何とも対比的です。画中でもとりわけコントラストにも巧みな、また精緻に描かれた部分でありながらも、その表情は空疎で、この施しに対する関心を全く示していません。また、施す女性たちと施される盲児たちには、それぞれに光と闇とが分かり易い形にて与えられ、持てる者と持たざる者の境遇の差を容赦なく示しています。「慈愛」の行為は確かに美しいものですが、ここにはその両者の越えられない壁が、半ば運命的なものとしても描かれているようです。(*1)

37歳にて自殺したとされるスケドーニの人生は情熱的、またときには争いを引き起こすような暴力的な面も持っていたそうです。この「パルマ展」は、そのような彼の傑作をおそらく日本で初めて紹介するものだと思います。この2点だけでも、展覧会を鑑賞する価値は十分にあると言えるのではないでしょうか。

8月26日までの開催です。もちろんおすすめします。(6/17)

*関連エントリ
「パルマ - イタリア美術、もう一つの都 - 」 国立西洋美術館(Vol.1)

*1 施す側の母子も裸足であることから、実際には庶民同士の施しを描いた作品とする見方が強いそうです。(「食べる西洋美術史/光文社新書/宮下規久朗」p.66参照。)
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「パルマ - イタリア美術、もう一つの都 - 」 国立西洋美術館(Vol.1)

国立西洋美術館台東区上野公園7-7
「パルマ - イタリア美術、もう一つの都 - 」
5/29-8/26



ルネサンス期より16、17世紀までのいわゆる「パルマ派」の系譜を、全100点の作品にて概観します。「パルマ派」自体の知名度はあまり高いものではありませんが、コレッジョやパルミジャーノ、そして今回の目玉でもあるスケドーニらの名作はしっかり揃っていました。見応えは十分です。

展覧会の構成は以下の通りです。

1. 15世紀から16世紀のパルマ - 「地方」の画家と地元の対応
2. コレッジョとパルミジャーノの季節
3. ファルネーゼ家の公爵たち
4. 聖と俗の絵画 - 「マニエーラ」の勝利
5. バロックへ - カラッチ、スケドーニ、ランフランコ
6. 素描および版画

展示のハイライトはやはりコレッジョ、パルミジャーノ、スケドーニの揃う「2」と「5」のセクションかと思いますが、彼ら三者の版画を比較して楽しめる「6」、及び北イタリアへ伝播してバロックへの橋渡しを務めたマニエリズモの絵画の並ぶ「4」も充実していました。ちなみに「3」のファルネーゼ家とは、この地方、つまりはパルマ・ピアチェンツァ公国を1545年より支配していた一族で、特に第3代公爵のアレッサンドロはスペイン統治下のネーデルランド総督としても活躍し、多くのスペイン絵画を北イタリアへもたらしていたのだそうです。展示では、その公爵の姿を勇壮な肖像画や甲冑などで楽しむことが出来ます。パルマの統治史と、それに伴って変化していく絵画史の交わるセクションです。



ルネサンス期のパルマの黄金時代を築いたという(公式HPより一部引用。)コレッジョとパルミジャーノでは、作風に優美な趣きを見せる前者により惹かれるものを感じました。まずは一推しは「階段の聖母」(1522-24年頃)です。丸みを帯びた目鼻立ちの印象的なマリアに抱かれているのは、まるで手足をばたつかせるようにしておさまるキリストでした。全身でキリストを包み込むような仕草を見せるマリアの甘美な表情に対し、キリストは随分と無邪気な面持ちで、その丸々とした足を窮屈そうに折り曲げています。その対比も興味深い作品です。



「幼児キリストを礼拝する聖母」(1525-26年頃)も印象的です。円柱から幼きキリストへと差し込む仄かな光りに包まれるのは、驚くほど白く、また透き通るような手の美しいマリアの姿でした。くっきりと高く描かれた鼻は気品すら示し、慈愛に満ちた顔の表情と美しいコントラストを織りなしています。また背景へ広がる長閑な描写にも目を向けたいところです。風に揺れるかのようにして靡く一際高い木から、朱の交じる水色の空が絶妙なグラデーションを描いています。



パルミジャーノでは、「ルクレティア」(1538-40)がその主題も借りて劇的です。生々しいほど艶やかな胸元とそこへ突き刺さる黒光りしたナイフ、または白目を向いて何かを叫ぶかのように口を開く、耳まで赤らんだ情熱的な顔、さらには細やかに描き分けられた装飾品と結われた金髪の全てが大変に高い質感をもって表現されています。そしてそれらは、深い漆黒の闇より輝かしい光によって浮き上がっているのです。これは否応なしに引き込まれます。

縦275、横120センチにもおよぶ大作、「聖チェチリア」(1522)も充実していました。左手に楽器を、また振り上げた右手には弦を携える音楽の守護聖人チェチリアが、等身大をゆうに越える大きさでありながらも隙のないタッチで描かれています。ここにいるチェチリアは、蒸し焼きを生き長らえ、首を切り離すことすら出来なかったという、半ば恐ろしいほどの生命力を持った一人の女性のエピソードを鑑みるのに相応しい姿です。大柄で隆々とした体つきにその逞しさを、また見開いた目には壮絶な最期でも動じることのなかった意思の強さを見る思いがしました。



さて「マニエーラ」を紹介する4番目のセクションでは、異時同図法とも言える技法を駆使したミモラ(?)の「サビニ族の女たちの略奪」(1570年頃)が強烈な印象を与えてくれます。古代ローマの始祖、伝説のロムルスによるサビニ侵攻、および和平の経緯が、一種のSF、もしくはスペクタクル映画のような体裁でダイナミックに描かれていました。画面中央にて赤ん坊を差し出し、馬に乗ったローマ人たちを止めようとしているのがサビニの女性たちでしょうか。そしてその一方、例えば画面左手では、男たちによって数多くの女性たちが奪われています。中央奥の塔のような建物を核として三分割したような構図感、もしくはやや奇異な遠近法による鳥瞰的な描写も心に残りました。出来れば、その描かれた場面と時間を整理しながら楽しみたい作品です。

少し長くなりました。次回「Vol.2」のエントリでは、セクション「5」のバロックより、特に静かな感動を与えてくれたスケドーニの作品について触れたいと思います。
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7月の予定と6月の記録 2007

いよいよ明日から、江戸絵画ファン待望(?)の「金刀比羅宮 書院の美」が藝大美術館で始まります。遅くなりましたが、毎月恒例の「予定と振り返り」です。

7月の予定

展覧会
「ヘンリー・ダーガー展」 原美術館 ( - 7/16)
「山種コレクション名品選 後期展示」 山種美術館 ( - 7/16)
「館蔵品展 江戸の粋」 大倉集古館( - 7/27)
「シャガール展」 千葉市美術館( - 7/29)
「アンリ・カルティエ=ブレッソン - 知られざる全貌 - 」 東京国立近代美術館( - 8/12)
「開館記念展2 水と生きる」 サントリー美術館( - 8/19)
「ユトリロ展 - モンマルトルの詩情 - 」 千葉県立美術館(7/14 - 8/26)
「金刀比羅宮 書院の美 - 応挙・若冲・岸岱 - 」 東京藝術大学大学美術館(7/7 - 9/9)
「線の迷宮<ラビリンス>2 - 鉛筆と黒鉛の旋律 - 」 目黒区美術館(7/7 - 9/9)

コンサート
伶楽舎 第8回雅楽演奏会 伶倫楽遊」 吉松隆「夢寿歌」他 (7/1)


6月の記録

展覧会
「モディリアーニと妻ジャンヌの物語展」 Bunkamura ザ・ミュージアム (2日)
「藤森建築と路上観察」 東京オペラシティアートギャラリー (3日)
「国立ロシア美術館展」 東京都美術館 (9日)
「肉筆浮世絵のすべて」(後期) 出光美術館 (16日)
「Oコレクションによる空想美術館 - 第1室」 トーキョーワンダーサイト本郷 (16日)
「MOTコレクション(2007年度第1期)」 東京都現代美術館 (16日)
「パルマ - イタリア美術、もう一つの都 - 」(Vol.1/Vol.2) 国立西洋美術館 (17日)
「プラハ国立美術館展」 Bunkamura ザ・ミュージアム (23日)
「茶道具 付属品とともにたのしむ」 泉屋博古館分館 (23日)
「風俗画と肉筆浮世絵」(後期) たばこと塩の博物館 (23日)
「ヴィクトリア アンド アルバート美術館 浮世絵名品展」(後期) 太田記念美術館 (23日)

ギャラリー
「カンノサカン 『trans.』」 ヴァイスフェルト (2日)
「鈴木雅明展 - Light - 」 Bunkamura ギャラリー (2日)
「竹川宣彰展」 オオタファインアーツ (2日)
「入江明日香展」 シロタ画廊 (9日)
「笹口数 『white』」 ZENSHI (16日)
染谷悠子展/デニス・ホリングスワース展」 小山登美夫ギャラリー (16日)
「寺田真由美展」 高島屋東京店 美術画廊X (30日)
「時光 蔡國強と資生堂」 資生堂ギャラリー (30日)
「須田悦弘展」 ギャラリー小柳 (30日)
「森山光輝展」 ぎゃらりぃ朋 (30日)

演劇
新国立劇場 「夏の夜の夢」 (3日)

今月は久々に千葉県立美術館へ足を運びたいと思います。と言うのも、ユトリロ展が三鷹から巡回して来るからです。現在開催中のシャガール(千葉市美術館)よりモノレールで千葉みなとへと移動し、ユトリロを見るというコースもまた良いかもしれません。

目黒区立美術館の「線の迷宮」は、現在活躍中の作家9名の鉛筆画などを紹介する展覧会です。中でも、西洋古典絵画より特定のモチーフを抜いて描いた「WITHOUT YOU」シリーズでも有名な小川信治が注目されます。ぐるっとパス対象(無料入場可)の展示なので、期限の切れないうちに見に行くつもりです。

先月は出光をはじめとするいくつかの浮世絵展を見たことで、自分の中にあった浮世絵への苦手意識がやや消えたような気がしました。今度は普段、殆ど素通りしていた東博常設の浮世絵コーナーをじっくりと楽しみたいと思います。

それでは今月も宜しくお願いします。
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「寺田真由美展」 高島屋東京店 美術画廊X

高島屋東京店6階 美術画廊X(中央区日本橋2-4-1
「寺田真由美展 - 光のモノローグ」
6/27-7/17(最終日は16時まで)

日本橋高島屋の現代アート専門画廊、「美術画廊X」の展覧会です。ニューヨーク在住の写真家、寺田真由美の個展を見てきました。

 

一見、例えばシンプルで飾り立てない室内をモノクロで捉えた写真に見えますが、実際は全て寺田自身の制作したミニチュアを撮影したものなのだそうです。確かに上に挙げた「傘と扉」(2005)でも、奥の窓はやや不自然に傾き、また水の滴る傘もどこか奇妙な形をして立てかけられています。さらにまるで祭壇のような「洗面台」(2001)も、その無機質なつくりは明らかに非日常的な空間を思わせていました。しばらく見ていると、現実と虚構の間から、後者だけが仄かに浮かび上がってくる。そんな雰囲気も感じられる作品です。

どれもこれらの虚構性、つまりはそれがミニチュアであることを決して隠そうとはしていません。ようはあえてミニチュアだと分からせること自体に、寺田の作品の独特な魅力があるようです。自然光による光とその影の溶け合う静謐な空間が、全くの非現実であることが理解された時、それはいつかの夢の記憶を呼び覚ますような懐かしさを感じます。ここにある幻想性は、おそらくミニチュアでなければ成り立たないのでしょう。

7月17日までの開催です。(6/30)
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「時光 蔡國強と資生堂」 資生堂ギャラリー

資生堂ギャラリー中央区銀座8-8-3 東京銀座資生堂ビル地下1階)
「時光 蔡國強と資生堂」
6/23-8/12

中国の福建省出身で、火薬を使ったインスタレーションでも知られる蔡國強(1957~)の個展です。これまでに世界各地で手がけた「爆発インスタレーション」の映像作品とともに、火薬も用いた4点のドローイング、および宙に浮かぶ金の小舟のインスタレーションが紹介されています。



まず、はじめの大きな展示室を使った4点のドローイングが圧巻でした。1枚は和紙をそのままに、また他の3点は和紙とキャンバスを組み合わせたものに、それぞれほぼモノトーン調で火薬の焦げ跡も生々しい一見抽象のような絵画が、空間をぐるりと取り囲むように置かれています。そして上を見上げると、緩やかな曲線を描きながら下降するかのように連なる小さな金の木舟が浮いているのです。小舟というよりも、小さな葉や魚のイメージを感じさせますが、それらがスイスイと気持ちよく泳ぐかのようにして繋がっていました。ちなみにこの小舟は、全部で99点あるのだそうです。(「時の流れ」をイメージした小舟だそうです。)

ドローイングをよく見ると、無数に散らばるシミや焦げ跡から、具体的なモチーフ、例えば松の木や魚、さらには兎のような小動物が浮かび上がってきます。実際にもこれらは、それぞれに春夏秋冬の四季の光景が表現されているようです。(画面には漢字で書かれた春や夏の文字を確認することが出来ます。)つまりはこの四季を、「時の流れ」をイメージした上の小舟が繋いでいるというコンセプトなのかもしれません。

奥の部屋では火薬の爆音も轟く映像作品を見ることが出来ます。こちらはヨハネスブルクやヴェネツィアなどで行われた、大掛かりなインスタレーションの記録でした。かつて中国で発明され、今でも春節などで用いられる火薬が、まるで世界各地で示威行為をするかのように激しく迸ります。この勢いはとどまる所を知りません。

8月12日までの開催です。(6/30)
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「プラハ国立美術館展」 Bunkamura ザ・ミュージアム

Bunkamura ザ・ミュージアム渋谷区道玄坂2-24-1
「プラハ国立美術館展 - ルーベンスとブリューゲルの時代 - 」
6/9-7/22



プラハ国立美術館の館蔵品にて、ルーベンス一派とブリューゲル・ファミリーを中心とした17世紀フランドル絵画を概観します。Bunkamuraで開催中の「プラハ国立美術館展」です。



サブタイトルに「ルーベンスとブリューゲルの時代」とありますが、あえて言えばその「時代」に重きの置かれた展示内容だと思います。この展覧会にはとりたてて優れた、例えば名高いブリューゲル(父)の傑作があるわけではなく、その模作を手がけたブリューゲル(子)や、主にルーベンスに学んで描かれたフランドル派の作品が展示されているに過ぎません。(ルーベンスの作品はいくつか展示されています。)ただしそれが、当時、神聖ローマ帝国の中心であったプラハにおけるフランドル絵画の受容史を見ることに繋がっているようです。出品作全64点のうち約10点ほどが複製(広義の工房作)であるのも、あえて評価するのであれば、数多くの画家たちがフランドル絵画を学んでいた事実を知るのに相応しいと言えるのではないでしょうか。



ブリューゲル(子)や、少々苦手意識もあるルーベンスの作品に惹かれる要素は少ないのですが、この展覧会で印象に残ったのは、個人的に好きなテニールス(子)の作品を3点ほど見られたことと、第5章「花と静物」における殆どグロテスクとも言えるような静物寓意画を楽しめたことでした。残念ながらテニールスに関しては、身近な上野の西洋美術館の「聖アントニウスの誘惑」に及ぶ優品はありませんでしたが、後者は半ばこの展覧会で最も個性的なセクションだと思うほど充実しています。特に、クエリヌス(子)とブールの「水の寓意」における、その多産を表現した毒々しい描写は衝撃的です。魚が不気味に溢れかえり、後方には愛欲に満ちた人間たちが楽園を駆けています。またチラシ表紙を飾ったブリューゲル(子、帰属)の「磁器の花瓶に生けた花」も、実際に見るとその描写はどこかいびつで、深い黒からふつふつと湧き上がるような花束にむせ返ってしまうような生々しさすら感じました。チラシとは大分、趣が異なります。

出品作の半数が日本初公開とのことです。どちらかというと、この近辺の絵画史に詳しい方により理解の深まる展覧会だと思います。

7月22日までの開催です。(6/23)
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「須田悦弘展」 ギャラリー小柳

ギャラリー小柳中央区銀座1-7-5 小柳ビル8階)
「須田悦弘展」
6/26-7/28

前々から楽しみにしていた展覧会です。お馴染みの花や植物をモチーフとした木彫を手がける、須田悦弘の個展へ行ってきました。



今回の出品は全7点です。「好きな場所にしか置かない。」(TABより引用。)という須田本人の考えの元、様々な花々がいつものような目立たない場所にて、さながらひっそりと身を潜めるかのように咲いていました。コンクリートの床から僅か高さ5センチほどに健気にのびる「菫(すみれ)」(2007)や、白い壁よりグイッと力強く生える「燕子花」(2007)、それにまるで風に吹かれて地に落ちたようにそっと置かれた「葉」(2007)など、それぞれがさながら作り手が丹精をこめて育てた園芸品のように『生きている』のです。どこからとなくもれる仄かな風に揺られた「朝顔」(2007)の風情はか弱く、その儚さすら思う一輪の花には思わず水をやりたくなるほどの愛おしさを感じました。

大きな蕾みをつけた「百合」(2007)を見ながら、紅白のツートンカラーの「チューリップ」(2005)を眺めていると時間を忘れます。須田の花を、これほど至近距離で、しかもいっぺんに7つも見られること自体が贅沢です。

制作者の手の温もりすら感じるような木彫独特の味わいに惹かれ、またそれを通り越した対象、つまりは植物そのものから、月並みながらも『癒し』を与えられているような気もします。

会期中、折に触れてまた見に行きたいと思います。7月28日までの開催です。もちろんおすすめします。(6/30)

*関連エントリ
須田悦弘の公開制作@府中市美術館(展示開催中!)
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