1月28日の記事の「災い転じて福」や「流れに掉さす」のように、意味が変わってしまった言葉というのはたくさんありますね。「福となす」は「福となる」に、これは、「となす」を言わなくなったから何となく「福となる」という単なるラッキーの意味になってしまったのか、「福となす」という積極性が失われたために「となす」を言わなくなったのか、どっちが先か分かりませんが。「流れに乗じる」は、船頭さんが流れに棹さし舟を進めるという光景が見られなくなり、「棹さす」というと止まるイメージになるので、「流れに逆らう」という意味に移り変わりました。
浮かんでくるイメージが共通していれば同じように認識され理解されるわけですが、時代が移り変わり、風景が変わり、生活が変わり、イメージがぼやけて定まらない場合、言葉の示す意味が人それぞれ違ってくるのはしょうがないことです。こうなると、大切なことを伝えようとするときは、そのことを踏まえ、誤解を生じないように言葉を選んで話すしかありません。聴衆の年齢や立場がばらばらなら、慣用句や意味があいまいになっている言葉を使うときは解説を忘れずに!
でも、問題は「舌鼓」のような言葉で、これを「したずつみ」と発音するのを容認してはいけないと思うのです。なぜなら、「鼓」は永遠に「つづみ」だからです。「鼓」は? つづみ、「舌鼓」は? したずつみ、おかしくないですか? おかしいでしょう? 今、日本語は、こんなに簡単な理由があっても、「したずつみ」と言う人が多いからそれでもいいんじゃないかという流れになっていて、私はこれをあまりに寛容すぎるのではないかと思っています。もしもこの先「鼓」の読み方が変化することがあるとしたら、それは、誤りに寛容すぎることが原因でしょう。
日本人が正しい助詞を使えなくなり、聞き手に甘えているということもたびたび書きましたし、実に深刻な状態なのですが、先日、あるニュース番組のメインキャスターが「そばを舌ずつみ」と言うのを聞きました。「舌ずつみ」だけでも十分おかしいのですが、助詞も間違っています。「そばを」ではなく、「そばに」です。「舌鼓」は、本来「舌鼓を打つ」で、「そばを舌鼓を打つ」はおかしいですね、「そばに舌鼓を打つ」なのです。でも、これを聞いた若い人は「そばを舌ずつみ」と言うのでしょうね、こうして日本語はどんどん崩れていくのです。時代に合った言葉を創出するよりも、正しい言葉を喪失することのほうが多く、それは見過ごしてはいけないと思うのですが、どうでしょうか。
浮かんでくるイメージが共通していれば同じように認識され理解されるわけですが、時代が移り変わり、風景が変わり、生活が変わり、イメージがぼやけて定まらない場合、言葉の示す意味が人それぞれ違ってくるのはしょうがないことです。こうなると、大切なことを伝えようとするときは、そのことを踏まえ、誤解を生じないように言葉を選んで話すしかありません。聴衆の年齢や立場がばらばらなら、慣用句や意味があいまいになっている言葉を使うときは解説を忘れずに!
でも、問題は「舌鼓」のような言葉で、これを「したずつみ」と発音するのを容認してはいけないと思うのです。なぜなら、「鼓」は永遠に「つづみ」だからです。「鼓」は? つづみ、「舌鼓」は? したずつみ、おかしくないですか? おかしいでしょう? 今、日本語は、こんなに簡単な理由があっても、「したずつみ」と言う人が多いからそれでもいいんじゃないかという流れになっていて、私はこれをあまりに寛容すぎるのではないかと思っています。もしもこの先「鼓」の読み方が変化することがあるとしたら、それは、誤りに寛容すぎることが原因でしょう。
日本人が正しい助詞を使えなくなり、聞き手に甘えているということもたびたび書きましたし、実に深刻な状態なのですが、先日、あるニュース番組のメインキャスターが「そばを舌ずつみ」と言うのを聞きました。「舌ずつみ」だけでも十分おかしいのですが、助詞も間違っています。「そばを」ではなく、「そばに」です。「舌鼓」は、本来「舌鼓を打つ」で、「そばを舌鼓を打つ」はおかしいですね、「そばに舌鼓を打つ」なのです。でも、これを聞いた若い人は「そばを舌ずつみ」と言うのでしょうね、こうして日本語はどんどん崩れていくのです。時代に合った言葉を創出するよりも、正しい言葉を喪失することのほうが多く、それは見過ごしてはいけないと思うのですが、どうでしょうか。