高月町には31の字があるといい、その大多数の集落に「野神さん」が祀られているといいます。
巨樹を野神さんとして祀るところ、石や石碑・祠を祀るところ、別のシンボル的なものを野神さんとして祀るところなど、それぞれ違いはあるようですが、どんな形であれ野神さんを祀る信仰は今も息づいている。
<松尾・重則の野神さん>
「松尾・重則の野神さん」は、田園地帯にある穏やかな野神さんとは受ける印象が違い、むしろ荒々しい山の神のような印象を受けます。
幹周6m・樹高35mの巨樹は、荒ぶる神の精霊が宿る依り代の木という言葉がしっくりきます。
余呉川と山に挟まれた松尾・重則地域には「十一面観音立像」を祀る「松尾寺(覚念寺)」、「聖観音立像」を祀る重則「普門院」があります。
「松尾・重則の野神さん」を最初に見たのは「観音の里ふるさとまつり」の時でしたから、高月の観音さんを訪ねた道を野神さんを探して歩いていることになりますね。
<西野の野神さん>
松尾・重則の隣村にあたる西野集落にも「伝薬師如来立像」「十一面観音立像」を祀る「充満寺(西野薬師堂)」や「千手千足観音立像」を祀る「正妙寺」がある。
いずれの仏像も、仏像ファンの心を引き付けてやまない仏像揃いで拝観者の多い地域となる。
西野の野神さんは村はずれの古保利丘陵の山麓にあり、巨石と御幣を巻いた竹が1本の木と共に祀られていました。
「西野の野神さん」は、西野集落の中でも北西の山の窪みのような奥まった場所にあり、日常とはかけ離れているような場所と感じたが、整備は行き届いています。
細い農道の奥のネットの中にもう1本道が通っており、松尾の方まで続いているようですが、奥の道は農地整備される前の旧道だったのかもしれません。
最初は旧道沿いにあると思い込み、扉を開けて歩こうとしてしまいましたが、そのまま行くと出口ははるか先になる。
野神さんは遠くから見るとそれほどの巨木には見えませんが、近くで見ると幹は太い。
巨石が共に祀られており、巨石が野神さんとして信仰されているのか、樹木が信仰されているのか、あるいは両方か。
かつて山を越えた琵琶湖側には「阿曾津千軒」といわれる大きな集落があったとされており、巨大地震によって湖底に沈んだという伝承があります。
その時に逃れた里人が「西野・松尾・熊野・東柳野・柳野中・西柳野・磯野」の七村に移って集落を作ったとも言われています。
<西野の薄墨桜と西野水道>
西野は北と西を山に囲まれた低地にあり、余呉川が氾濫すると田畑が冠水して大きな被害を受けた地だといいます。
西野充満寺住職の西野恵荘が放水路を造らなければと工事に着工したものの、岩盤の硬さや事故・資金の問題などで難工事となったといいます。
1845年に5年の歳月をかけて初代の西野水道は完成したといい、その後2代目・3代目の放水路が造られています。
西野水道の横に「保存樹指定樹木標識」があり、1本の薄墨桜がありました。
薄墨桜の樹齢は165年(平成22年度指定なので現在175年)、幹周が2.9mで樹高は15mとされています。
この薄墨桜は主幹は伐られていますが、平地に向けて枝が伸びていて葉もよく茂っている。
桜の季節にはどんな花を咲かせていたのでしょうね。
長浜市の保存樹は『世の中の移り変わりをじっと見つめ、豊な緑で私たちに潤いと安らぎを与えてくれる、樹齢を重ねているなどの由緒ある樹木』とされます。
「西野の薄墨桜」は、その主旨で選ばれている樹木の中の1本となります。
尚、平成22年の指定は長浜市合併に伴う指定ですので、そうそうたる巨樹に交じっての指定となります。
<磯野の野神さん>
かつて磯野集落には「磯野の一本杉」という野神さんがあったとされますが、枯れてしまい新たなスギが植えられています。
巨樹は倒壊したり、枯れたり、事情によって伐採されたりすることがありますので、機会を逃してしまうと、2度と見ることが出来なくなる事があります。
次の世代の木が巨樹になるまでには最低でも100年単位の年月が必要になりますから、何代か先の子孫の時代に見ることが出来るというレベルになってしまいます。
磯野の野神さんには「野大神」の石碑と「農萬年寿」の石碑が建ち、7本の若いスギが植えられています。
たとえ野神さんが一旦は失われても、次の世代の野神さんを育てていく姿勢には連綿と続く五穀豊穣の祈りが込められているのでしょう。
木の根元には石仏や五輪塔が集められていましたが、いつの時代に造られたものでしょうか、劣化がかなり進んでいます。
かつては道々に祀られていたと思われ、道路や田圃が整備された時に集められたのでしょう。
“高月町を歩けば「観音さま」と「野神さん」に出会う”というのを実感します。
また、高月町を含む湖北地方には小さな森があちこちにあり、祠が祀られていることが多い。
湖北の信仰には独特の風習が残り、興味深く感じる歴史の多い地域だと改めて感じます。
巨樹を野神さんとして祀るところ、石や石碑・祠を祀るところ、別のシンボル的なものを野神さんとして祀るところなど、それぞれ違いはあるようですが、どんな形であれ野神さんを祀る信仰は今も息づいている。
<松尾・重則の野神さん>
「松尾・重則の野神さん」は、田園地帯にある穏やかな野神さんとは受ける印象が違い、むしろ荒々しい山の神のような印象を受けます。
幹周6m・樹高35mの巨樹は、荒ぶる神の精霊が宿る依り代の木という言葉がしっくりきます。
余呉川と山に挟まれた松尾・重則地域には「十一面観音立像」を祀る「松尾寺(覚念寺)」、「聖観音立像」を祀る重則「普門院」があります。
「松尾・重則の野神さん」を最初に見たのは「観音の里ふるさとまつり」の時でしたから、高月の観音さんを訪ねた道を野神さんを探して歩いていることになりますね。
<西野の野神さん>
松尾・重則の隣村にあたる西野集落にも「伝薬師如来立像」「十一面観音立像」を祀る「充満寺(西野薬師堂)」や「千手千足観音立像」を祀る「正妙寺」がある。
いずれの仏像も、仏像ファンの心を引き付けてやまない仏像揃いで拝観者の多い地域となる。
西野の野神さんは村はずれの古保利丘陵の山麓にあり、巨石と御幣を巻いた竹が1本の木と共に祀られていました。
「西野の野神さん」は、西野集落の中でも北西の山の窪みのような奥まった場所にあり、日常とはかけ離れているような場所と感じたが、整備は行き届いています。
細い農道の奥のネットの中にもう1本道が通っており、松尾の方まで続いているようですが、奥の道は農地整備される前の旧道だったのかもしれません。
最初は旧道沿いにあると思い込み、扉を開けて歩こうとしてしまいましたが、そのまま行くと出口ははるか先になる。
野神さんは遠くから見るとそれほどの巨木には見えませんが、近くで見ると幹は太い。
巨石が共に祀られており、巨石が野神さんとして信仰されているのか、樹木が信仰されているのか、あるいは両方か。
かつて山を越えた琵琶湖側には「阿曾津千軒」といわれる大きな集落があったとされており、巨大地震によって湖底に沈んだという伝承があります。
その時に逃れた里人が「西野・松尾・熊野・東柳野・柳野中・西柳野・磯野」の七村に移って集落を作ったとも言われています。
<西野の薄墨桜と西野水道>
西野は北と西を山に囲まれた低地にあり、余呉川が氾濫すると田畑が冠水して大きな被害を受けた地だといいます。
西野充満寺住職の西野恵荘が放水路を造らなければと工事に着工したものの、岩盤の硬さや事故・資金の問題などで難工事となったといいます。
1845年に5年の歳月をかけて初代の西野水道は完成したといい、その後2代目・3代目の放水路が造られています。
西野水道の横に「保存樹指定樹木標識」があり、1本の薄墨桜がありました。
薄墨桜の樹齢は165年(平成22年度指定なので現在175年)、幹周が2.9mで樹高は15mとされています。
この薄墨桜は主幹は伐られていますが、平地に向けて枝が伸びていて葉もよく茂っている。
桜の季節にはどんな花を咲かせていたのでしょうね。
長浜市の保存樹は『世の中の移り変わりをじっと見つめ、豊な緑で私たちに潤いと安らぎを与えてくれる、樹齢を重ねているなどの由緒ある樹木』とされます。
「西野の薄墨桜」は、その主旨で選ばれている樹木の中の1本となります。
尚、平成22年の指定は長浜市合併に伴う指定ですので、そうそうたる巨樹に交じっての指定となります。
<磯野の野神さん>
かつて磯野集落には「磯野の一本杉」という野神さんがあったとされますが、枯れてしまい新たなスギが植えられています。
巨樹は倒壊したり、枯れたり、事情によって伐採されたりすることがありますので、機会を逃してしまうと、2度と見ることが出来なくなる事があります。
次の世代の木が巨樹になるまでには最低でも100年単位の年月が必要になりますから、何代か先の子孫の時代に見ることが出来るというレベルになってしまいます。
磯野の野神さんには「野大神」の石碑と「農萬年寿」の石碑が建ち、7本の若いスギが植えられています。
たとえ野神さんが一旦は失われても、次の世代の野神さんを育てていく姿勢には連綿と続く五穀豊穣の祈りが込められているのでしょう。
木の根元には石仏や五輪塔が集められていましたが、いつの時代に造られたものでしょうか、劣化がかなり進んでいます。
かつては道々に祀られていたと思われ、道路や田圃が整備された時に集められたのでしょう。
“高月町を歩けば「観音さま」と「野神さん」に出会う”というのを実感します。
また、高月町を含む湖北地方には小さな森があちこちにあり、祠が祀られていることが多い。
湖北の信仰には独特の風習が残り、興味深く感じる歴史の多い地域だと改めて感じます。