多賀大社というと、すぐに「糸切り餅」が思い浮かんでしまうのですが、「糸切り餅」の老舗の店舗に看板として使われているのは大きな杓子です。
杓子は「お多賀杓子」といい、奈良時代の元正天皇(第44代の女性天皇)の病に際し、多賀大社の神主が強飯を炊き、飯を盛る杓子を献上すると、天皇がたちまち治癒されたとの伝承があります。
多賀町には、杓子に使った残り枝を地に挿したものが大木になったと伝承される2本の木が「多賀大社のケヤキ」として今も残ります。
まずは多賀大社に参拝してから飯盛木を探すことになりますが、早朝の神社は参拝者はほとんどおられず、とても気持ちが良く参拝出来る。
多賀大社の鳥居から表参道絵馬通りを進み、住宅街の街並みが切れ、田園地帯に入ると飯盛木は容易に見えてくる。
飯盛木は、「男飯盛木」と「女飯盛木」の2本が対をなして200mほど離れた位置に立っており、西に工場が見えるものの、見渡す限りの田園地帯を歩くのは爽快な気分です。
男飯盛木は、幹周6.32mで樹高は15m。樹齢は推定で300年以上だといい、滋賀県の指定自然記念物となっています。
幹は随分と傾いてはいるものの、樹冠はこんもりと茂り、老木とはいえまだまだ健在な姿を見せてくれます。
風を遮るものが何もない田園地帯ですから、このように傾いてしまったのかもしれませんが、支えがしっかりと設置されていて、枝は上方に向かって伸びています。
かつてはもう1本大きな枝があったようではあるが、その枝は分岐のところで折れてしまったようで、少し痛々しい。
「女飯盛木」は、キリンビール滋賀工場の方向に探すまでもなく見えており、移動すると駐車できそうなスペースがあった。
農繁期ではなかった時期だったから良かったものの、農繁期だと狭い農道に入るのは迷惑になってしまうので、とてもじゃないけど入れない。
女飯盛木の方も主幹が傾いていて、先端部は折れているが、バランスを取るように主幹とは反対方向に分かれた枝には葉が茂る。
女飯盛木の幹周は9.75mと男飯盛木よりかなり太くなっており、樹高は15mとほぼ同じで、樹齢300年以上というのも同じ表記になっていた。
主幹の中央辺りにある枝の折れた跡と瘤が特徴的で、何か生命を宿した生き物のようにも見えてしまう。
「お多賀杓子」は、無病長寿の杓子のお守りとして親しまれており、多賀大社では絵馬ではなく杓子に願い事を書いて祈願します。
元正天皇の病気治癒の伝承も、この2本のケヤキを見ると後に作られた話というよりも、元々ケヤキが多い土地柄だったところに祈願とケヤキが結びついていったのかもしれません。
さて、このようにケヤキが多賀大社の縁起に結びついていると、多賀大社の御神木のように受け取ってしまいそうですが、多賀大社の御神木は大社から6キロ離れた杉坂峠に祀られています。
御神木である「杉坂峠の三本杉」には、伊邪那岐大神が高天の原から天降られた時に、土地の老人が粟の飯を献上し、大神が食後にその杉箸を地面に刺したところ、根付いて大木になったという伝承があります。
飯盛木といい、三本杉といい飯(米)に由来する伝承があるのは、神道での稲作に対する霊的な信仰につながっているとも言えそうです。
「杉坂峠の三本杉」は、車がすれ違うことの出来ないような細い林道を登った先にあり、数年前に訪れた時には濃霧で数m程度の視界しかない中での走行でした。
やっとたどり着いた霧の中に、3本杉が立っている姿を見た時には、あまりの神々しさに震えが止まらなかった記憶があります。
<名神高速 菩提寺PAの「美し松」>
随分と久しぶりに高速道路で外出する用事があり、休憩で菩提寺パーキングに立ち寄ったところ、見応えのある松があるのが目に入ってきた。
信楽焼のタヌキさんの後方にあったのは、枝分かれの多いアカマツかと思ってみていると、「美し松(ウツクシマツ)」というアカマツの変種で、菩提寺PAのある湖南市平松に自生する特殊なスギだという。
湖南市平松には「平松のウツクシマツ自生地」があり、国の天然記念物に指定されており、このような変種がまとまって自生しているのは劣性遺伝での交配を繰り返した結果であるとされています。
平松の自生地は美松山(227m)の南東の斜面にあるといい、実際に訪れたことはありませんが、約200本ほどのウツクシマツが群生しているといいます。
菩提寺PAの「美し松」は、名神高速建設時にウツクシマツと思わしき若木を3本移植し、枯れなかった2本のうちの1本が本物のウツクシマツだったといいます。
ウツクシマツには大きくなる性質があり、主幹が真っすぐに伸びずに多くの枝に分かれるといいます。
この菩提寺のウツクシマツも確かに多くの枝に分かれて、背が高く伸びています。
平松のウツクシマツには、平安時代に欝々とした生活を送っていた藤原頼平という青年が、平松を訪れた時に突然娘が現れて“松尾明神から頼平のお供を命じられた”と言ったとされます。
頼平が辺りの山を見渡すと、周囲の雑木林がたちまち美しい松に変わったという伝承があるといいます。
頼平は、京都・松尾大社から分霊を頂いて、平松に松尾神社を創建したといい、平松のウツクシマツは松尾神社の御神木となったと伝わります。
また、歌川広重は「東海道五十三次」の水口宿の浮世絵に「平松山美松」を描いており、古くからこのウツクシマツが親しまれていたことが分かります。
高速道路のパーキングで名木に出会ったのも何かの縁。
いつになるか分かりませんが、機会を見つけて「平松のウツクシマツ自生地」を訪れてみたいものです。
杓子は「お多賀杓子」といい、奈良時代の元正天皇(第44代の女性天皇)の病に際し、多賀大社の神主が強飯を炊き、飯を盛る杓子を献上すると、天皇がたちまち治癒されたとの伝承があります。
多賀町には、杓子に使った残り枝を地に挿したものが大木になったと伝承される2本の木が「多賀大社のケヤキ」として今も残ります。
まずは多賀大社に参拝してから飯盛木を探すことになりますが、早朝の神社は参拝者はほとんどおられず、とても気持ちが良く参拝出来る。
多賀大社の鳥居から表参道絵馬通りを進み、住宅街の街並みが切れ、田園地帯に入ると飯盛木は容易に見えてくる。
飯盛木は、「男飯盛木」と「女飯盛木」の2本が対をなして200mほど離れた位置に立っており、西に工場が見えるものの、見渡す限りの田園地帯を歩くのは爽快な気分です。
男飯盛木は、幹周6.32mで樹高は15m。樹齢は推定で300年以上だといい、滋賀県の指定自然記念物となっています。
幹は随分と傾いてはいるものの、樹冠はこんもりと茂り、老木とはいえまだまだ健在な姿を見せてくれます。
風を遮るものが何もない田園地帯ですから、このように傾いてしまったのかもしれませんが、支えがしっかりと設置されていて、枝は上方に向かって伸びています。
かつてはもう1本大きな枝があったようではあるが、その枝は分岐のところで折れてしまったようで、少し痛々しい。
「女飯盛木」は、キリンビール滋賀工場の方向に探すまでもなく見えており、移動すると駐車できそうなスペースがあった。
農繁期ではなかった時期だったから良かったものの、農繁期だと狭い農道に入るのは迷惑になってしまうので、とてもじゃないけど入れない。
女飯盛木の方も主幹が傾いていて、先端部は折れているが、バランスを取るように主幹とは反対方向に分かれた枝には葉が茂る。
女飯盛木の幹周は9.75mと男飯盛木よりかなり太くなっており、樹高は15mとほぼ同じで、樹齢300年以上というのも同じ表記になっていた。
主幹の中央辺りにある枝の折れた跡と瘤が特徴的で、何か生命を宿した生き物のようにも見えてしまう。
「お多賀杓子」は、無病長寿の杓子のお守りとして親しまれており、多賀大社では絵馬ではなく杓子に願い事を書いて祈願します。
元正天皇の病気治癒の伝承も、この2本のケヤキを見ると後に作られた話というよりも、元々ケヤキが多い土地柄だったところに祈願とケヤキが結びついていったのかもしれません。
さて、このようにケヤキが多賀大社の縁起に結びついていると、多賀大社の御神木のように受け取ってしまいそうですが、多賀大社の御神木は大社から6キロ離れた杉坂峠に祀られています。
御神木である「杉坂峠の三本杉」には、伊邪那岐大神が高天の原から天降られた時に、土地の老人が粟の飯を献上し、大神が食後にその杉箸を地面に刺したところ、根付いて大木になったという伝承があります。
飯盛木といい、三本杉といい飯(米)に由来する伝承があるのは、神道での稲作に対する霊的な信仰につながっているとも言えそうです。
「杉坂峠の三本杉」は、車がすれ違うことの出来ないような細い林道を登った先にあり、数年前に訪れた時には濃霧で数m程度の視界しかない中での走行でした。
やっとたどり着いた霧の中に、3本杉が立っている姿を見た時には、あまりの神々しさに震えが止まらなかった記憶があります。
<名神高速 菩提寺PAの「美し松」>
随分と久しぶりに高速道路で外出する用事があり、休憩で菩提寺パーキングに立ち寄ったところ、見応えのある松があるのが目に入ってきた。
信楽焼のタヌキさんの後方にあったのは、枝分かれの多いアカマツかと思ってみていると、「美し松(ウツクシマツ)」というアカマツの変種で、菩提寺PAのある湖南市平松に自生する特殊なスギだという。
湖南市平松には「平松のウツクシマツ自生地」があり、国の天然記念物に指定されており、このような変種がまとまって自生しているのは劣性遺伝での交配を繰り返した結果であるとされています。
平松の自生地は美松山(227m)の南東の斜面にあるといい、実際に訪れたことはありませんが、約200本ほどのウツクシマツが群生しているといいます。
菩提寺PAの「美し松」は、名神高速建設時にウツクシマツと思わしき若木を3本移植し、枯れなかった2本のうちの1本が本物のウツクシマツだったといいます。
ウツクシマツには大きくなる性質があり、主幹が真っすぐに伸びずに多くの枝に分かれるといいます。
この菩提寺のウツクシマツも確かに多くの枝に分かれて、背が高く伸びています。
平松のウツクシマツには、平安時代に欝々とした生活を送っていた藤原頼平という青年が、平松を訪れた時に突然娘が現れて“松尾明神から頼平のお供を命じられた”と言ったとされます。
頼平が辺りの山を見渡すと、周囲の雑木林がたちまち美しい松に変わったという伝承があるといいます。
頼平は、京都・松尾大社から分霊を頂いて、平松に松尾神社を創建したといい、平松のウツクシマツは松尾神社の御神木となったと伝わります。
また、歌川広重は「東海道五十三次」の水口宿の浮世絵に「平松山美松」を描いており、古くからこのウツクシマツが親しまれていたことが分かります。
高速道路のパーキングで名木に出会ったのも何かの縁。
いつになるか分かりませんが、機会を見つけて「平松のウツクシマツ自生地」を訪れてみたいものです。