勧請縄は村に悪霊や疫病が入って来ないよう、また五穀豊穣や安寧を祈願して村の出入り口などに吊る(道切り)とされ、主縄の中央にはトリクグラズという魔よけの呪具を付けることが多い。
トリクグラズに祈祷札を付ける集落があるが、安土町西老蘇の「鎌若宮神社」では勧請縄を吊るしてお祓いをした後、祈祷札に石を投げて祈祷札を割ってしまうのだという。
同じように祈祷札を割るのは東近江市の市辺東の勧請縄でもみられましたが、西老蘇では千年以上続く行事だといい、祈祷札が割れるとその年は健康で過ごせるという伝承があるそうです。
鎌若宮神社のこの神事は「まじゃらこ(魔蛇羅講)」と呼ばれ、石を投げるのは小学生で低学年から石を投げていくのだといいます。
旧中山道沿いにある鎌若宮神社は御祭神に大己貴命(大国主神)を祀る神社で、かつて一つの村だった老蘇が東西分立するに至って鎌宮四座の中で西老蘇に鎌宮の若宮として勧請されたという。
東老蘇にある「奥石神社」は大正期まで鎌宮と称していたといいますし、鎌若宮神社と奥石神社の御神紋は四ツ木瓜ですので、つながる部分は多い。
勧請縄は主縄に頭と尾があり、小縄は左右6本づつで中央に直径90cmほどのトリクグラズが付けられて上部には3本の御幣が刺さる。
トリクグラズの中に付けられた祈祷札は下半分が割れてしまっており、これは「まじゃらこ」神事で割られたもの。
祈祷札が割られる前に書かれていた文字は「天下泰平」。
この2年ちょっとでいえば「天下泰平」は、コロナ退散を願う気持ちが万人の共通の願いです。
鎌若宮神社の境内には「神武天皇遥拝所」がありました。
日本の初代天皇とされる神武天皇ですが、遥拝所の先は橿原神宮なのでしょうか。
境内にはもう1カ所遥拝所があり、こちらの碑には「秋葉〇神(〇は読み取れず)とあります。
秋葉信仰は山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神とされ、火伏せの霊験があるとして信仰されています。
鎌若宮神社の本殿は寛文12年造営、寛政3年暴風雨により本殿破損し同年再建。
安政3年に拝殿が建立とされ、明治以降に村社となったとされます。
西老蘇の集落には中心部の鎌若宮神社の勧請縄を東側の道切りとすると、西側にも勧請縄が吊るされています。
この辺りは、旧中山道沿いに集落が点在し、西老蘇には鎌若宮神社、東老蘇には奥石神社が中心となり、東と西に道切りが吊るされるような位置関係に見えます。
西老蘇集落の西の道路脇に勧請縄が立てられており、トリクグラズに沿って主縄が巻かれた少し変わった形をしています。
元々こういう吊るし方(立て方)をしていたのか、かつては道路を横切る道切りだったのかは不明ですが、道切りが簡略化されて今の立て方になった可能性がありそうです。
トリクグラズに付けられた祈祷札には「天下泰平」の文字。
同じ西老蘇でも鎌若宮神社のように札を割る「まじゃらこ(魔蛇羅講)」の神事は行われていないようです。
さて次は、西の湖方面へと向かい白王町白部の若宮神社へ参拝します。
若宮神社は御祭神に惟喬親王を祀りますが、惟喬親王といえば奥永源寺の君ヶ畑に隠棲して木地師の技術を伝えた人で悲運の皇子と伝えられている方。
君ヶ畑と白王町は現在の感覚ではかなり離れていると思いますが、鈴鹿山系の山村で信仰された惟喬親王が琵琶湖にほど近い西の湖近くの白王町で祀られているのは不思議にも感じます。
白王町の若宮神社は集落から外れた山麓のひっそりとした場所にあり、石段を登って行った先に吊られている。
最初は石段の上にある勧請縄に気が付かず、本殿まで行ってふと振り返った時に目に入ってきた。
トリクグラズは主縄の上に付けられ、杉の葉が巻きつけられて、小幣3本が主縄とトリクグラズを突き抜けるように刺されている。
小縄は通常12本吊るされることが多いが、この勧請縄の小縄は7本なので珍しい本数になっている。
近江八幡市には春に各集落で独自の松明を作って奉火するという神事があるといい、全域で大証00基を超える松明が結われて奉火されるのだという。
若宮神社でも毎年4月頃に数基の松明を作られているようですが、松明を作った残り屑などを積み上げて、吊るしていた勧請縄を巻き付けたものも松明として奉火されるとのこと。
最後に円山町にある圓山神社に向かう。
急で長い石段の途中に勧請縄があるはずでしたが、残念ながら見当たらずで、おそらくかつて吊るしていたであろう2本の木だけが確認出来ました。
せっかくきて参拝せずに帰るのも無礼な話ですので、石段を登り切って本殿へ参拝します。
圓山神社は本殿の後方に巨大な磐座がある巨石信仰の神社ですが、この磐座は何度見ても圧倒されます。
昨年初頭と今年これまでで滋賀県内で確認できた勧請縄は30種。
それぞれの集落によって勧請縄の個性や祀り方は違い、同じものはありませんでした。
それは集落で守られてきた伝統や信仰の違いではありますが、共通する願いは同じもののように感じます。
トリクグラズに祈祷札を付ける集落があるが、安土町西老蘇の「鎌若宮神社」では勧請縄を吊るしてお祓いをした後、祈祷札に石を投げて祈祷札を割ってしまうのだという。
同じように祈祷札を割るのは東近江市の市辺東の勧請縄でもみられましたが、西老蘇では千年以上続く行事だといい、祈祷札が割れるとその年は健康で過ごせるという伝承があるそうです。
鎌若宮神社のこの神事は「まじゃらこ(魔蛇羅講)」と呼ばれ、石を投げるのは小学生で低学年から石を投げていくのだといいます。
旧中山道沿いにある鎌若宮神社は御祭神に大己貴命(大国主神)を祀る神社で、かつて一つの村だった老蘇が東西分立するに至って鎌宮四座の中で西老蘇に鎌宮の若宮として勧請されたという。
東老蘇にある「奥石神社」は大正期まで鎌宮と称していたといいますし、鎌若宮神社と奥石神社の御神紋は四ツ木瓜ですので、つながる部分は多い。
勧請縄は主縄に頭と尾があり、小縄は左右6本づつで中央に直径90cmほどのトリクグラズが付けられて上部には3本の御幣が刺さる。
トリクグラズの中に付けられた祈祷札は下半分が割れてしまっており、これは「まじゃらこ」神事で割られたもの。
祈祷札が割られる前に書かれていた文字は「天下泰平」。
この2年ちょっとでいえば「天下泰平」は、コロナ退散を願う気持ちが万人の共通の願いです。
鎌若宮神社の境内には「神武天皇遥拝所」がありました。
日本の初代天皇とされる神武天皇ですが、遥拝所の先は橿原神宮なのでしょうか。
境内にはもう1カ所遥拝所があり、こちらの碑には「秋葉〇神(〇は読み取れず)とあります。
秋葉信仰は山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神とされ、火伏せの霊験があるとして信仰されています。
鎌若宮神社の本殿は寛文12年造営、寛政3年暴風雨により本殿破損し同年再建。
安政3年に拝殿が建立とされ、明治以降に村社となったとされます。
西老蘇の集落には中心部の鎌若宮神社の勧請縄を東側の道切りとすると、西側にも勧請縄が吊るされています。
この辺りは、旧中山道沿いに集落が点在し、西老蘇には鎌若宮神社、東老蘇には奥石神社が中心となり、東と西に道切りが吊るされるような位置関係に見えます。
西老蘇集落の西の道路脇に勧請縄が立てられており、トリクグラズに沿って主縄が巻かれた少し変わった形をしています。
元々こういう吊るし方(立て方)をしていたのか、かつては道路を横切る道切りだったのかは不明ですが、道切りが簡略化されて今の立て方になった可能性がありそうです。
トリクグラズに付けられた祈祷札には「天下泰平」の文字。
同じ西老蘇でも鎌若宮神社のように札を割る「まじゃらこ(魔蛇羅講)」の神事は行われていないようです。
さて次は、西の湖方面へと向かい白王町白部の若宮神社へ参拝します。
若宮神社は御祭神に惟喬親王を祀りますが、惟喬親王といえば奥永源寺の君ヶ畑に隠棲して木地師の技術を伝えた人で悲運の皇子と伝えられている方。
君ヶ畑と白王町は現在の感覚ではかなり離れていると思いますが、鈴鹿山系の山村で信仰された惟喬親王が琵琶湖にほど近い西の湖近くの白王町で祀られているのは不思議にも感じます。
白王町の若宮神社は集落から外れた山麓のひっそりとした場所にあり、石段を登って行った先に吊られている。
最初は石段の上にある勧請縄に気が付かず、本殿まで行ってふと振り返った時に目に入ってきた。
トリクグラズは主縄の上に付けられ、杉の葉が巻きつけられて、小幣3本が主縄とトリクグラズを突き抜けるように刺されている。
小縄は通常12本吊るされることが多いが、この勧請縄の小縄は7本なので珍しい本数になっている。
近江八幡市には春に各集落で独自の松明を作って奉火するという神事があるといい、全域で大証00基を超える松明が結われて奉火されるのだという。
若宮神社でも毎年4月頃に数基の松明を作られているようですが、松明を作った残り屑などを積み上げて、吊るしていた勧請縄を巻き付けたものも松明として奉火されるとのこと。
最後に円山町にある圓山神社に向かう。
急で長い石段の途中に勧請縄があるはずでしたが、残念ながら見当たらずで、おそらくかつて吊るしていたであろう2本の木だけが確認出来ました。
せっかくきて参拝せずに帰るのも無礼な話ですので、石段を登り切って本殿へ参拝します。
圓山神社は本殿の後方に巨大な磐座がある巨石信仰の神社ですが、この磐座は何度見ても圧倒されます。
昨年初頭と今年これまでで滋賀県内で確認できた勧請縄は30種。
それぞれの集落によって勧請縄の個性や祀り方は違い、同じものはありませんでした。
それは集落で守られてきた伝統や信仰の違いではありますが、共通する願いは同じもののように感じます。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます