勧請縄は、集落は村の外れなどに「道切り」として集落内に不浄のものや悪霊が入らないようにする結界であると共に、五穀豊穣や村内安全を祈願する民俗信仰であるとされます。
勧請縄には神道的なもの、仏教的なもの、呪術的なものが混じり合った信仰があるとされますが、その根源には安寧を願う人々の祈りの姿であるといえます。
滋賀県の湖東・湖南地方には勧請縄の行事が多く見受けられ、中でも東近江市一帯は勧請縄の密度が濃い地域で、昨年の年初に続いて今年も勧請縄を巡っています。
今回の勧請縄巡りは、東近江市の市辺町からスタートして市辺西の勧請縄を見た後、西に移動して下羽田町へやってきました。
田園地帯の中にポツンとある下羽田集落の自治会館前にはモチノキに短い主縄が吊るされ、小縄とトリクグラスが真ん中にある華やかな感じのする勧請縄です。
トリクグラスには木炭やミカン、ユズリハの葉が付けられ、主縄の上部には3本の御幣が差し込まれている。
横の祠の両端にも小縄が吊るされていましたが、祠に小縄が吊るされている光景も東近江市界隈では他でも見かけられます。
勧請縄は西村泰郎さんの「勧請縄-個性豊かな村境の魔よけ-」によると少なくとも700~800年前にはこの原型があった記録があるとされますので室町期以前から続く信仰と考えられます。
勧請縄の吊るされた木と祠の間には火伏せに霊験のある神として広く信仰される「愛宕大神」の石碑が建てられています。
東近江市の集落などを移動していると愛宕大神の石碑に出会うことが多く、一帯で防火を祈願されていたことが伺われます。
農村部の集落は細くくねった道沿いに、かつては藁ぶきの木造家屋が並んでいましたので火災を怖れる気持ちが強かったのではないかと勝手に推測します。
次に船岡山の東にある糠塚町の「巽之神社」へ向かうと、神社の裏側の参道にゴツゴツとした力感の勧請縄が吊るされていました。
小縄は12本吊るされ、中央部にはトリクグラズ。主縄の頭の部分が見えていますが、裏側にも頭のような部分が見えている。
勧請縄の裏側へ回り込んでみると上下2本づつの縄が吊り下げられていました。
主縄の頭ではなく小縄でもない、見たことのない縄の吊るし方です。
トリクグラズは丸に十字の形を取っており、絵馬型の祈祷札が付けられている。
神社の外側には年月日と社守の方の名前、神社の内側には“五穀成就 勧請済 町内安全”とある。
“勧請済”は神の分身をお移ししてお祀り済ということになり、祈祷札やトリクグラズには神の分身が宿っていると解釈できそうです。
ところで、東近江市には糠塚町という地名があり、地名は歴史を語るものだと思いますが、「糠塚」という地名がなぜ付いたのでしょう。
歴史民俗用語辞典によると「糠塚」とは“古墳、特に、円墳や前方後円墳に対して用いられた伝承名”とされており、実際に糠塚町には「塚立古墳群」という円墳が存在したとのことですので、やはり地名は歴史を語ります。
東近江市から隣接する近江八幡市に移動し、中山道の武佐宿にある牟佐神社へと向かいます。
次に訪れた武佐宿は中山道六十九次の66番目の宿場で、武佐宿の次は守山宿・草津宿・大津宿を経て京都三条大橋まであと僅かな位置にある宿場です。
牟佐神社は、武佐宿「高札場跡の横にある神社で、「高札場」は幕府や領主が決めた法度や掟書などを木の板札に書いて掲げておく場所とのことですからこの辺りが宿場の中心部だったのでしょう。
「武佐」と「牟佐」は共に“むさ”と読み紛らわしいのですが、いつの時代かに字を当てはめられかえたのかもしれません。
尚、武佐は古代には牟佐村主(カバネ)の本拠地ではなかったとの説があり、牟佐氏の祖神ゆかりの深い神社のようです。
牟佐神社の勧請縄は2本の巨樹に吊るされていましたが、驚いたのは左側のケヤキの巨樹の見事さです。
幹周約5mの巨樹で樹高も30m相当あり、幹は若干左に傾いています。
吊るしてある木が大木なので勧請縄が小ぶりに見えてしまいますが、勧請縄自体は立派なもので左右に小縄が12本あり中央には円形のトリクグラズが取り付けてあります。
もう一方の木もそこそこの太さの木で、勧請縄よりも5mクラスの太さの巨樹に目を取られてしまいます。
牟佐神社のトリクグラズに関して西村泰郎さんの著書には“トリクグラズはすぎの丸に三方の枝を絞って前に突出した鼻を作る。鬼の顔だという。”とあります。
陰陽道では陰陽師が式神(鬼)を使って使役させたと言われますが、鬼に守護させているのか、人の悪行を見定めて咎める役割があるのかといろいろ考えてみるのも面白い。
勧請縄は、自然信仰を始めとして神道・道教・密教や浄土思想・陰陽道の影響があるとされます。
集落ごとにその姿は違いますが、根っこの部分には安寧への祈りと煩悩に悩まされず善行を行う気持ちも一つの要素だったのではないでしょうか。
次は旧中山道を西へ向かい、西老蘇や西の湖方面へと向かいます。
勧請縄には神道的なもの、仏教的なもの、呪術的なものが混じり合った信仰があるとされますが、その根源には安寧を願う人々の祈りの姿であるといえます。
滋賀県の湖東・湖南地方には勧請縄の行事が多く見受けられ、中でも東近江市一帯は勧請縄の密度が濃い地域で、昨年の年初に続いて今年も勧請縄を巡っています。
今回の勧請縄巡りは、東近江市の市辺町からスタートして市辺西の勧請縄を見た後、西に移動して下羽田町へやってきました。
田園地帯の中にポツンとある下羽田集落の自治会館前にはモチノキに短い主縄が吊るされ、小縄とトリクグラスが真ん中にある華やかな感じのする勧請縄です。
トリクグラスには木炭やミカン、ユズリハの葉が付けられ、主縄の上部には3本の御幣が差し込まれている。
横の祠の両端にも小縄が吊るされていましたが、祠に小縄が吊るされている光景も東近江市界隈では他でも見かけられます。
勧請縄は西村泰郎さんの「勧請縄-個性豊かな村境の魔よけ-」によると少なくとも700~800年前にはこの原型があった記録があるとされますので室町期以前から続く信仰と考えられます。
勧請縄の吊るされた木と祠の間には火伏せに霊験のある神として広く信仰される「愛宕大神」の石碑が建てられています。
東近江市の集落などを移動していると愛宕大神の石碑に出会うことが多く、一帯で防火を祈願されていたことが伺われます。
農村部の集落は細くくねった道沿いに、かつては藁ぶきの木造家屋が並んでいましたので火災を怖れる気持ちが強かったのではないかと勝手に推測します。
次に船岡山の東にある糠塚町の「巽之神社」へ向かうと、神社の裏側の参道にゴツゴツとした力感の勧請縄が吊るされていました。
小縄は12本吊るされ、中央部にはトリクグラズ。主縄の頭の部分が見えていますが、裏側にも頭のような部分が見えている。
勧請縄の裏側へ回り込んでみると上下2本づつの縄が吊り下げられていました。
主縄の頭ではなく小縄でもない、見たことのない縄の吊るし方です。
トリクグラズは丸に十字の形を取っており、絵馬型の祈祷札が付けられている。
神社の外側には年月日と社守の方の名前、神社の内側には“五穀成就 勧請済 町内安全”とある。
“勧請済”は神の分身をお移ししてお祀り済ということになり、祈祷札やトリクグラズには神の分身が宿っていると解釈できそうです。
ところで、東近江市には糠塚町という地名があり、地名は歴史を語るものだと思いますが、「糠塚」という地名がなぜ付いたのでしょう。
歴史民俗用語辞典によると「糠塚」とは“古墳、特に、円墳や前方後円墳に対して用いられた伝承名”とされており、実際に糠塚町には「塚立古墳群」という円墳が存在したとのことですので、やはり地名は歴史を語ります。
東近江市から隣接する近江八幡市に移動し、中山道の武佐宿にある牟佐神社へと向かいます。
次に訪れた武佐宿は中山道六十九次の66番目の宿場で、武佐宿の次は守山宿・草津宿・大津宿を経て京都三条大橋まであと僅かな位置にある宿場です。
牟佐神社は、武佐宿「高札場跡の横にある神社で、「高札場」は幕府や領主が決めた法度や掟書などを木の板札に書いて掲げておく場所とのことですからこの辺りが宿場の中心部だったのでしょう。
「武佐」と「牟佐」は共に“むさ”と読み紛らわしいのですが、いつの時代かに字を当てはめられかえたのかもしれません。
尚、武佐は古代には牟佐村主(カバネ)の本拠地ではなかったとの説があり、牟佐氏の祖神ゆかりの深い神社のようです。
牟佐神社の勧請縄は2本の巨樹に吊るされていましたが、驚いたのは左側のケヤキの巨樹の見事さです。
幹周約5mの巨樹で樹高も30m相当あり、幹は若干左に傾いています。
吊るしてある木が大木なので勧請縄が小ぶりに見えてしまいますが、勧請縄自体は立派なもので左右に小縄が12本あり中央には円形のトリクグラズが取り付けてあります。
もう一方の木もそこそこの太さの木で、勧請縄よりも5mクラスの太さの巨樹に目を取られてしまいます。
牟佐神社のトリクグラズに関して西村泰郎さんの著書には“トリクグラズはすぎの丸に三方の枝を絞って前に突出した鼻を作る。鬼の顔だという。”とあります。
陰陽道では陰陽師が式神(鬼)を使って使役させたと言われますが、鬼に守護させているのか、人の悪行を見定めて咎める役割があるのかといろいろ考えてみるのも面白い。
勧請縄は、自然信仰を始めとして神道・道教・密教や浄土思想・陰陽道の影響があるとされます。
集落ごとにその姿は違いますが、根っこの部分には安寧への祈りと煩悩に悩まされず善行を行う気持ちも一つの要素だったのではないでしょうか。
次は旧中山道を西へ向かい、西老蘇や西の湖方面へと向かいます。
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