令和の始まりの日、寝屋川市にある「成田山大阪別院 明王院」へ参拝しました。
成田山大阪別院 明王院は、その正式な寺名よりも「成田山不動尊」として親しまれている寺院で、千葉県にある「成田山新勝寺」の大阪別院になります。
成田山不動尊では5月1日は「令和元年開闢大護摩供」の法要が営まれ、普段は入れない本堂内陣欄干内での本尊不動明王「お手綱参拝」が行われます。
せっかくの機会ですから大護摩供の時間に合わせて寺院を訪れ、外陣に座って護摩供に参加させていただきました。
成田山不動尊のある北河内は大阪の鬼門・京都の裏鬼門にあたるといい、鬼門よけの意味もあって1934年に成田山新勝寺の大阪別院として建立されたのが始まりとされます。
成田山で有名なのが「節分祭」での豆まきですが、平成最後の豆まきには朝ドラ「まんぷく」のヒロインの安藤サクラさんと松坂慶子さんが豆をまかれる姿がニュースで取り上げられていたのも記憶に新しいところです。
参拝した日には令和初日ということもあって、参拝者が次々と来られ、それぞれの方の新年号に対する想いが伺われました。
TVニュースでは渋谷や道頓堀での大騒ぎの様子が報道されていたのには少々気持ちが萎えたものの、それも人それぞれの改号の迎え方というものなのでしょう。
実のところ、これまで元号に対して特別な思いはこれまでなかったのですが、昭和・平成・令和の3つの時代を過ごし、年齢を重ねてしまうと時代に対する思いも深まってくるように思います。
長生きすれば次の元号まで生きているかもしれませんが、それはどうなるかは分らない。
成田山不動尊にはドバトが多く暮らしているのですが、手水で清めようとした時に、手水の龍のお腹のところに数羽のドバトがいて水を飲んでいたのには驚いた。
人が手水へ来ると飛んでいくのですが、ドバトにとってはいい水場になっているのでしょう。
手水舎の後方には何の木かは分かりませんが、生命感に溢れる大木がありました。
元々この地にあった木か、寺院の創建後に植えられたものかは不明です。
そのまま掃き清められた参道を進むと獅子を据えた常香炉があり、線香を焚かせてもらい煙を手で招いて浴びる。
御本尊を祀る本堂は比較的新しい寺院ということもあり古式感はないが、朱色が鮮やかで彫り物の傷みも見られません。
横に長い賽銭箱がこの寺院の参拝者の多さを伺わせ、通常はここで参拝を済ませることになります。
ちょうど護摩供の時間となりましたので、外陣へ入り特別参拝をさせてもらいます。
成田山では読教の際にマイクで拡声されるのですが、閉じられた堂内では数名の僧の読教・太鼓の音・ホラ貝の音で大音響に包まれての参拝となります。
護摩の炎も煩悩を焼き尽くすかのように燃え上がり、護摩供の途中から般若心経の読教が始まる。
すると、それまで正座されていた方々が立ち上がり内陣欄干に集まりだします。
何事かと思っていると、それぞれの方のカバンなどを寺院の方に渡して護摩の炎にかざしてもらっておられます。
身に付けているものを護摩の炎にかざして、心身を清めるということなのかと解釈して、列に並んで自分のカバンを護摩の炎にかざしていただきました。
「大阪成田山たより」より
護摩供が終わって僧呂の方々が退場されると、「お手綱参拝」が始まります。
内陣欄干内に入って不動明王の左手からつながる五色の羂索に手を通して、不動明王との縁を結びます。
須弥壇には不動明王坐像を中心に、眷属である矜羯羅童子と制多迦童子が安置され、脇陣には護摩の煤で詳細は見えないものの、不動明王を除く五大明王である大威徳・軍荼利・降三世・金剛夜叉と思われる諸仏が並ぶ。
真言宗(智山派)寺院の護摩供の激しさと厳粛さに圧倒されて本堂を後にして境内を歩くと、不動明王の持つ倶利伽羅剣が奉納されている場所へと導かれます。
さらに境内を進むと「四国八十八箇所霊場お砂踏み」の祠が続きます。
四国の寺院には未だに1寺も参拝したことはありませんが、いつか巡礼する日が来るやも知れぬ、来ないやも知れぬ。
千葉県成田山新勝寺は歌舞伎の名門「成田屋」と深いつながりがあるそうですが、大阪別院の成田山も芸能関係者の信仰が厚い寺院のようです。
関西はお笑いの本場ということで、関西演芸協会が建立した「笑魂塚」がお笑いに尽くした芸人の鎮魂の碑として祀られています。
大護摩供では神社の祈祷で使われるような大幣を振られていましたが、皆が目を閉じ頭を下げて清められている最後に大きな声で「喝!」と喝が入る。
令和がどのような時代になるかは分かりませんが、生きとし生けるものが生き生きと暮らせる世の中になって欲しいと願います。
成田山大阪別院 明王院は、その正式な寺名よりも「成田山不動尊」として親しまれている寺院で、千葉県にある「成田山新勝寺」の大阪別院になります。
成田山不動尊では5月1日は「令和元年開闢大護摩供」の法要が営まれ、普段は入れない本堂内陣欄干内での本尊不動明王「お手綱参拝」が行われます。
せっかくの機会ですから大護摩供の時間に合わせて寺院を訪れ、外陣に座って護摩供に参加させていただきました。
成田山不動尊のある北河内は大阪の鬼門・京都の裏鬼門にあたるといい、鬼門よけの意味もあって1934年に成田山新勝寺の大阪別院として建立されたのが始まりとされます。
成田山で有名なのが「節分祭」での豆まきですが、平成最後の豆まきには朝ドラ「まんぷく」のヒロインの安藤サクラさんと松坂慶子さんが豆をまかれる姿がニュースで取り上げられていたのも記憶に新しいところです。
参拝した日には令和初日ということもあって、参拝者が次々と来られ、それぞれの方の新年号に対する想いが伺われました。
TVニュースでは渋谷や道頓堀での大騒ぎの様子が報道されていたのには少々気持ちが萎えたものの、それも人それぞれの改号の迎え方というものなのでしょう。
実のところ、これまで元号に対して特別な思いはこれまでなかったのですが、昭和・平成・令和の3つの時代を過ごし、年齢を重ねてしまうと時代に対する思いも深まってくるように思います。
長生きすれば次の元号まで生きているかもしれませんが、それはどうなるかは分らない。
成田山不動尊にはドバトが多く暮らしているのですが、手水で清めようとした時に、手水の龍のお腹のところに数羽のドバトがいて水を飲んでいたのには驚いた。
人が手水へ来ると飛んでいくのですが、ドバトにとってはいい水場になっているのでしょう。
手水舎の後方には何の木かは分かりませんが、生命感に溢れる大木がありました。
元々この地にあった木か、寺院の創建後に植えられたものかは不明です。
そのまま掃き清められた参道を進むと獅子を据えた常香炉があり、線香を焚かせてもらい煙を手で招いて浴びる。
御本尊を祀る本堂は比較的新しい寺院ということもあり古式感はないが、朱色が鮮やかで彫り物の傷みも見られません。
横に長い賽銭箱がこの寺院の参拝者の多さを伺わせ、通常はここで参拝を済ませることになります。
ちょうど護摩供の時間となりましたので、外陣へ入り特別参拝をさせてもらいます。
成田山では読教の際にマイクで拡声されるのですが、閉じられた堂内では数名の僧の読教・太鼓の音・ホラ貝の音で大音響に包まれての参拝となります。
護摩の炎も煩悩を焼き尽くすかのように燃え上がり、護摩供の途中から般若心経の読教が始まる。
すると、それまで正座されていた方々が立ち上がり内陣欄干に集まりだします。
何事かと思っていると、それぞれの方のカバンなどを寺院の方に渡して護摩の炎にかざしてもらっておられます。
身に付けているものを護摩の炎にかざして、心身を清めるということなのかと解釈して、列に並んで自分のカバンを護摩の炎にかざしていただきました。
「大阪成田山たより」より
護摩供が終わって僧呂の方々が退場されると、「お手綱参拝」が始まります。
内陣欄干内に入って不動明王の左手からつながる五色の羂索に手を通して、不動明王との縁を結びます。
須弥壇には不動明王坐像を中心に、眷属である矜羯羅童子と制多迦童子が安置され、脇陣には護摩の煤で詳細は見えないものの、不動明王を除く五大明王である大威徳・軍荼利・降三世・金剛夜叉と思われる諸仏が並ぶ。
真言宗(智山派)寺院の護摩供の激しさと厳粛さに圧倒されて本堂を後にして境内を歩くと、不動明王の持つ倶利伽羅剣が奉納されている場所へと導かれます。
さらに境内を進むと「四国八十八箇所霊場お砂踏み」の祠が続きます。
四国の寺院には未だに1寺も参拝したことはありませんが、いつか巡礼する日が来るやも知れぬ、来ないやも知れぬ。
千葉県成田山新勝寺は歌舞伎の名門「成田屋」と深いつながりがあるそうですが、大阪別院の成田山も芸能関係者の信仰が厚い寺院のようです。
関西はお笑いの本場ということで、関西演芸協会が建立した「笑魂塚」がお笑いに尽くした芸人の鎮魂の碑として祀られています。
大護摩供では神社の祈祷で使われるような大幣を振られていましたが、皆が目を閉じ頭を下げて清められている最後に大きな声で「喝!」と喝が入る。
令和がどのような時代になるかは分かりませんが、生きとし生けるものが生き生きと暮らせる世の中になって欲しいと願います。
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