今年の「観音の里ふるさとまつり」もいよいよ大詰めとなり、最後は高月町でまだ拝観したことのない観音堂へ参拝することにします。
何年かかけて観音まつりで御開帳している観音堂を巡ってきましたが、今年でほぼ一回りすることができ、来年からは何度も拝観したい仏像のリピート拝観になりそうです。
湖北の観音さんを観音まつりや特別開帳などで拝観してきましたが、なぜこれほどの数の仏像が小さな集落ごとにお祀りされているのか不思議に思うことがあります。
湖北一円で毎年30寺ほどの観音堂が一斉開帳されるとはいえ開帳されない観音堂もあり、特に高月町内ではひとつの観音堂に参拝している時に近くの観音堂の赤いノボリが見える密集度も凄い。
また湖北の観音さんの中でも「十一面観音」をお祀りする観音堂は非常に多く、湖北の観音文化の基礎となった白山信仰の泰澄ゆかりの影響が色濃く感じられます。
高月町内へ戻って最初の観音堂は落川集落の「浄光寺」で、この観音堂でも「十一面観音立像」をお祀りしています。
「浄光寺」は伝教大師・最澄が己高山に留錫された時に建立されたとされ、当時は「厳長寺」という鶏足寺の末寺だったとされます。
1573年には浅井氏と織田信長軍が戦った「雨森の磧」での戦いの兵火によって焼失したとされますが、その後跡地に再建されて日吉神社と隣り合わせとなって祀られている。
日吉大社の本堂の横に磐座のように祀られている岩があり、この岩は落川集落の野神さんで、毎年8月に野神祭が斎行されているといいます。
かつては杉の木が野神さんだったそうですが、現在は石が野神さんの依り代となっています。
御堂の中では右端に「阿弥陀如来立像」が祀られ、厨子の中には御本尊の「十一面観音立像」、右に「薬師如来立像」、左に「阿弥陀如来立像」の3躰が並びます。
中央に菩薩さま、両脇に脇侍ではなく如来を配置しており、中央に如来・脇侍に菩薩という配置とは違い少し変わった並び順になっていますが、如来は後から厨子に祀ったものだと思います。
3躰の内「十一面観音立像」は彩色が残り、残りの2躰は木色となっています。この3躰の仏像は室町期の仏像とされ、地方仏的な共通点があるといいます。
世話方の説明では、この地方に存在した地方仏師か、その仏師を中心とする仏師集団の作ではないかと言われているということでした。
確かに迫力を感じるとか慈悲深い姿に感動を覚えるといった感じよりも、村の心優しい仏さんといった親しみやすい人間臭さを感じる仏像です。
湖北の仏像には、洗練された美しい仏さんや凛とした仏さん、親しみやすい仏さんなど個性豊かな仏さんがそれぞれの集落で祀られ、多様性に富んだ仏像が多いのも魅力のひとつです。
また湖北の観音さんを祀る観音堂は、戦国時代の兵火で焼失したという話があちこちの集落に残りますが、身の危険をかえりみず仏像を守り切ったという話が多い。
戦乱で家が焼かれることもあったでしょうし田畑は荒らされて、生き延びたもののこれから生きていくのも大変な時にも関わらず、村の仏さんを守るのは並大抵なことではなかったと思います。
「浄光寺」でゆっくりさせていただいた後、最後に「観音の里ふるさとまつり」で唯一拝観していない東物部の「光明寺」へと参拝します。
行基が彫ったという「十一面千手観世音菩薩」を祀るというこの御堂は未だ参拝したことのない観音堂で楽しみにしていましたが、観音堂にはひとけがない。
おかしいなと思って御堂の前まで行くと“新型コロナ感染拡大の影響により開帳を見送らせていただきます。”との張り紙があり、「光明寺」参拝は来年の楽しみということになりました。
せっかくなのでもう別の観音堂の仏さんを拝観しようと東物部の集落を移動していると「東物部の野神さん」が祀られている場所に出くわしました。
墓地の横に「野大神」とおられた石碑が建ち、紙垂が付けられた竹が立てられています。
玉垣の中にあるケヤキの木は、太さはあるものの巨樹と呼ばれる太さにはまだ少し足りないのかもしれませんが、樹勢が良いので今後も増々大きくなっていきそうです。
かつての東物部の野神さんにはヒノキの大木があったといい、集落の御神木であり野神さんの宿る木だったのが、今はこのケヤキに信仰が受け継がれています。
今年の観音まつりの最後は横山集落の「横山神社」に参拝して終了とします。
横山神社には平安末期から鎌倉初期の作とされる「馬頭観音立像」が祀られ、高月町では唯一の馬頭観音だとされている。(余呉町まで含めると全長寺に馬頭観音がある)
社伝では593年、横山大明神が高時川上流にある木之本町杉野の「横山岳」「五銚子の滝」のほとりの杉の巨木に降臨し、その大木で神像を彫刻して奉安したのが杉野本宮「横山神社」の始まりとされている。
957年に時の神主であった横山将艦が高月町横山の地に勧請し、「本地馬頭観音像」を遷座したと伝えられているという。
木之本町杉野の「横山神社」は、横山岳の「五銚子の滝」上にある杉の巨樹に祭神天降りせられたりと伝えられており、後に「経の滝」の上に社殿を奉遷し、公文所、地頭職屋敷、名主屋敷、神宮寺等が有ったという。
現在の杉野「横山神社」は、1439年に本殿をはじめ其の他の社殿祭神を1社に合祀して里宮となっていますが、その遥か以前に「本地馬頭観音像」は高月町の横山に遷座されていたことになります。
「本地馬頭観音像」は像高99.6cm、ヒノキの一木造の三面八臂の像で、お顔は忿怒の相を示し、頭上には馬頭をいただいています。
全面にわたって補修が入っている仏像とされており、そういう目で見れば補修されたと思われる部分も多いとはいえ、全体のバランスの取れた仏像だと思います。
横山神社の参道横には「横山神社古墳」があり、方形の部分と思われる場所に横山神社が鎮座している。
横山神社古墳は全長約35mの前方後円墳とされ、古墳時代後期(6世紀頃)の古墳と推定されています。
後円部と思われる場所の墳丘には、玉垣を縄で囲い竹が立てられている場所があり、特別な空間が結界で囲まれている。
もしやと思って横山神社の世話方の方に聞くと、やはり横山集落の野神さんでした。
高月町には横山神社古墳の北東に兵主神社古墳、西方に古保利古墳群、北方に湧出山古墳、南方に姫塚古墳などが分布しており、有力な一族がこの地を治めていたことが推定できます。
古墳の上に祠などが祀られていることもよくあり、遠く古墳時代から綿々と祀り事が引き継がれている。
今年の「観音の里ふるさとまつり」は、野神さんや滝を挟みながら古墳に始まり古墳で終わるような奇妙な巡回になりましたが、拝観した観音堂や諸仏はそれぞれ魅力があった。
来年からは何度も見たい仏像のリピート巡りで観音堂を巡ることが出来そうです。
何年かかけて観音まつりで御開帳している観音堂を巡ってきましたが、今年でほぼ一回りすることができ、来年からは何度も拝観したい仏像のリピート拝観になりそうです。
湖北の観音さんを観音まつりや特別開帳などで拝観してきましたが、なぜこれほどの数の仏像が小さな集落ごとにお祀りされているのか不思議に思うことがあります。
湖北一円で毎年30寺ほどの観音堂が一斉開帳されるとはいえ開帳されない観音堂もあり、特に高月町内ではひとつの観音堂に参拝している時に近くの観音堂の赤いノボリが見える密集度も凄い。
また湖北の観音さんの中でも「十一面観音」をお祀りする観音堂は非常に多く、湖北の観音文化の基礎となった白山信仰の泰澄ゆかりの影響が色濃く感じられます。
高月町内へ戻って最初の観音堂は落川集落の「浄光寺」で、この観音堂でも「十一面観音立像」をお祀りしています。
「浄光寺」は伝教大師・最澄が己高山に留錫された時に建立されたとされ、当時は「厳長寺」という鶏足寺の末寺だったとされます。
1573年には浅井氏と織田信長軍が戦った「雨森の磧」での戦いの兵火によって焼失したとされますが、その後跡地に再建されて日吉神社と隣り合わせとなって祀られている。
日吉大社の本堂の横に磐座のように祀られている岩があり、この岩は落川集落の野神さんで、毎年8月に野神祭が斎行されているといいます。
かつては杉の木が野神さんだったそうですが、現在は石が野神さんの依り代となっています。
御堂の中では右端に「阿弥陀如来立像」が祀られ、厨子の中には御本尊の「十一面観音立像」、右に「薬師如来立像」、左に「阿弥陀如来立像」の3躰が並びます。
中央に菩薩さま、両脇に脇侍ではなく如来を配置しており、中央に如来・脇侍に菩薩という配置とは違い少し変わった並び順になっていますが、如来は後から厨子に祀ったものだと思います。
3躰の内「十一面観音立像」は彩色が残り、残りの2躰は木色となっています。この3躰の仏像は室町期の仏像とされ、地方仏的な共通点があるといいます。
世話方の説明では、この地方に存在した地方仏師か、その仏師を中心とする仏師集団の作ではないかと言われているということでした。
確かに迫力を感じるとか慈悲深い姿に感動を覚えるといった感じよりも、村の心優しい仏さんといった親しみやすい人間臭さを感じる仏像です。
湖北の仏像には、洗練された美しい仏さんや凛とした仏さん、親しみやすい仏さんなど個性豊かな仏さんがそれぞれの集落で祀られ、多様性に富んだ仏像が多いのも魅力のひとつです。
また湖北の観音さんを祀る観音堂は、戦国時代の兵火で焼失したという話があちこちの集落に残りますが、身の危険をかえりみず仏像を守り切ったという話が多い。
戦乱で家が焼かれることもあったでしょうし田畑は荒らされて、生き延びたもののこれから生きていくのも大変な時にも関わらず、村の仏さんを守るのは並大抵なことではなかったと思います。
「浄光寺」でゆっくりさせていただいた後、最後に「観音の里ふるさとまつり」で唯一拝観していない東物部の「光明寺」へと参拝します。
行基が彫ったという「十一面千手観世音菩薩」を祀るというこの御堂は未だ参拝したことのない観音堂で楽しみにしていましたが、観音堂にはひとけがない。
おかしいなと思って御堂の前まで行くと“新型コロナ感染拡大の影響により開帳を見送らせていただきます。”との張り紙があり、「光明寺」参拝は来年の楽しみということになりました。
せっかくなのでもう別の観音堂の仏さんを拝観しようと東物部の集落を移動していると「東物部の野神さん」が祀られている場所に出くわしました。
墓地の横に「野大神」とおられた石碑が建ち、紙垂が付けられた竹が立てられています。
玉垣の中にあるケヤキの木は、太さはあるものの巨樹と呼ばれる太さにはまだ少し足りないのかもしれませんが、樹勢が良いので今後も増々大きくなっていきそうです。
かつての東物部の野神さんにはヒノキの大木があったといい、集落の御神木であり野神さんの宿る木だったのが、今はこのケヤキに信仰が受け継がれています。
今年の観音まつりの最後は横山集落の「横山神社」に参拝して終了とします。
横山神社には平安末期から鎌倉初期の作とされる「馬頭観音立像」が祀られ、高月町では唯一の馬頭観音だとされている。(余呉町まで含めると全長寺に馬頭観音がある)
社伝では593年、横山大明神が高時川上流にある木之本町杉野の「横山岳」「五銚子の滝」のほとりの杉の巨木に降臨し、その大木で神像を彫刻して奉安したのが杉野本宮「横山神社」の始まりとされている。
957年に時の神主であった横山将艦が高月町横山の地に勧請し、「本地馬頭観音像」を遷座したと伝えられているという。
木之本町杉野の「横山神社」は、横山岳の「五銚子の滝」上にある杉の巨樹に祭神天降りせられたりと伝えられており、後に「経の滝」の上に社殿を奉遷し、公文所、地頭職屋敷、名主屋敷、神宮寺等が有ったという。
現在の杉野「横山神社」は、1439年に本殿をはじめ其の他の社殿祭神を1社に合祀して里宮となっていますが、その遥か以前に「本地馬頭観音像」は高月町の横山に遷座されていたことになります。
「本地馬頭観音像」は像高99.6cm、ヒノキの一木造の三面八臂の像で、お顔は忿怒の相を示し、頭上には馬頭をいただいています。
全面にわたって補修が入っている仏像とされており、そういう目で見れば補修されたと思われる部分も多いとはいえ、全体のバランスの取れた仏像だと思います。
横山神社の参道横には「横山神社古墳」があり、方形の部分と思われる場所に横山神社が鎮座している。
横山神社古墳は全長約35mの前方後円墳とされ、古墳時代後期(6世紀頃)の古墳と推定されています。
後円部と思われる場所の墳丘には、玉垣を縄で囲い竹が立てられている場所があり、特別な空間が結界で囲まれている。
もしやと思って横山神社の世話方の方に聞くと、やはり横山集落の野神さんでした。
高月町には横山神社古墳の北東に兵主神社古墳、西方に古保利古墳群、北方に湧出山古墳、南方に姫塚古墳などが分布しており、有力な一族がこの地を治めていたことが推定できます。
古墳の上に祠などが祀られていることもよくあり、遠く古墳時代から綿々と祀り事が引き継がれている。
今年の「観音の里ふるさとまつり」は、野神さんや滝を挟みながら古墳に始まり古墳で終わるような奇妙な巡回になりましたが、拝観した観音堂や諸仏はそれぞれ魅力があった。
来年からは何度も見たい仏像のリピート巡りで観音堂を巡ることが出来そうです。
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