滋賀県と三重県の県境にある岩尾山(標高471m)の中腹にある寺院「息障寺」には奇岩・巨岩が聳え立ち、奥之院には像高5mにおよぶ不動明王の摩崖仏が彫られているという。
「息障寺」は最澄が比叡山延暦寺を開山する時に、用材をこの山に求めたところ大蛇が木こりの道を妨げたため、最澄が禁竜の法で大蛇を倒し、木を伐りだすことが出来たとの伝承があります。
切り出された木材により比叡山の根本中堂が建設され、その報恩のため「息障寺」が開山されたといいます。
寺院は「池原延暦寺」と称されたと伝わり、「比叡山試みの寺」とも呼ばれているという。
寺院は甲賀市から林道へ入ると“三重県伊賀市”になり、寺院の直前に“滋賀県甲賀市”となることから、まさに両県にまたがる山を挟んだ県境となります。
対向車とすれ違うのも困難なような細い九十九折りの林道には湿地のような場所も見られ、道にキジが歩いていたりする秘境への道のようなところ。
山中には至る所に巨石があり、山伏たちが山岳信仰に励んだ行場だったと考えられており、修験道が盛んだった霊山とされています。
また、甲賀流忍者の修練場だったともいい、駐車場には忍者のモニュメントが置かれていました。
寺院へつながる林道を進むと「芭蕉の句碑」の石標があり、その先が旧の参道になっているようだ。
しかし、参道はゴツゴツした岩の道が続いており、本堂までの距離も分からない。
しかも参道入口の横には「賽の河原」というどうにも気味の悪い場所があり、上方に垣間見える参道には大きな岩がゴロゴロしているのが伺われる。
周辺人の姿や気配など全くなく、山の中でたった一人の状態ではとてもじゃないけど進む勇気はなく、参道からの入山はパスさせてもらう。
林道を登りきると、入山口である「黒門」があり、その横にはとんでもない大きさの「曼荼羅岩」というが鎮座している。
参道側にせり出して下の岩が支えているようですが、入山した早々に唖然としてしまう迫力の巨岩です。
黒門には林道の途中に入口のあった旧参道がつながってきている。
参道の入口・出口しか見ていませんが、旧参道までの入り口が人里離れた山の中腹にあることを考えれば、この山が修験道の山・忍者の修練場と呼ばれる一端が感じられる。
黒門からの石段を登ると本堂・阿弥陀堂が並ぶ領域となり、険しい雰囲気から解放される。
息障寺では春の会式として毎年2月に「採燈護摩」法要が行われ、現在も天台寺院として・山伏の寺院としての会式が伝わります。
本堂の左側には「四国八十八ヵ所巡り」の入口があり、山の中を一巡りできるが、「釣鐘堂」の横にある石段から「奥之院」への道を目指す。
「釣鐘堂」の前に立つ杉の巨木の上部がへし折れているのは2018年の台風被害の影響でしょうか。
奥之院への石段は勾配の強い石段ではあるが、道の両サイドに巨岩が見られるため、さほど辛くはない。
それよりもこれから石の山へと入っていく期待感で心が躍る。
釣鐘堂からわずかな距離にあるのは「行者岩」と呼ばれる巨岩と、1385年に彫られたという「摩崖地蔵菩薩坐像」。
苔むした行者岩と接する岩に彫られた摩崖仏には覆屋が掛けられていたようだが、壊れてしまって岩の前に落ちている。
摩崖仏は舟形光背を彫りくぼめた中に像高32センチの地蔵菩薩が鎮座しておられる。
寺院の説明書きによると“至徳二年”の刻銘があるといい、至徳とは南北朝期の北朝の年号とされています。
摩崖仏に刻銘された至徳二年(1385年)は南北朝が合一される直前の時期ともなるようです。
石段の横から山道へ入ったところにあったのは「八丈岩」と呼ばれる大岩でした。
この八丈岩は土に埋まっている場所があってサイズは計り知れないものの、“八丈”を字のまま読むと24mということになるが、まんざら虚飾でもないように思える広さだった。
石段を登りきると見えてくるのは「屏風岩」という山のように巨大な巨岩でした。
岩の下の部分は補強され、全体を落下防止のワイヤーで覆われていましたが、屏風岩の表面に触れてみると花崗岩が脆そうな感じがしましたので、維持のための補強が必要なのかもしれません。
屏風岩に彫られた「摩崖不動明王立像」は見えにくくはなっているものの、像高は5mにもなるという摩崖仏が線刻されています。
彫られたのは室町時代初期といいますから、石段の下方にあった磨崖地蔵菩薩坐像の刻銘画南北朝時代末期を示すことから、両者は近い時代に彫られたものともいえます。
下から見上げている当方の頭上遥かの高さに不動明王の顔がある。
地上20mもの高さを誇る屏風岩に造立されたこの摩崖仏があることで、息障寺は「岩尾の不動産」と呼ばれているといい、この摩崖仏を見るとその名称にも納得する。
屏風岩から先にも奇石・巨岩を巡るルートがあり、さらに先へ進んでみる。
甲賀市から伊賀市にかけての一帯には巨石と摩崖仏などの石文化があるとはいえ、これだけ巨岩が多いとあっけにとられてしまう。
名称は不明だが烏帽子のように尖がった巨岩には上部からチェーンが吊るされている。
たとえ登り切ったとしても腰を下ろすことも出来ないような岩のてっぺんで何をしようとしていたのでしょう。
「お馬岩」という奇石は馬の背を連想させるもの。
馬というよりも象の後ろ姿のようにも見えますが、日本に存在して尚且つ信仰を受けている馬に見立てて「お馬岩」と名付けられているのかと思われます。
ルートの曲がり角にあるのは叩くと木魚の音がするという「木魚岩」。
最初は何でこの岩が木魚なのかと不思議だったが、木魚の音がすると知ったのは帰ってからのこと。
そのまま道なりに登り方向に進むと、少し開けたところに出た。
おそらくこの巨石群の一番上方だと思われる場所で一息付く。
そのまま下山方向に進むと「四国八十八ヵ所巡り」の巡礼道と交差します。
年季の入った石仏が並ぶ道はあまりにも寂しく、同行二人という言葉はあるものの、再び元来た道へと戻る。
山道を歩く途中に眺望が開けている場所が何カ所かあり、美しい景色に見惚れてしまう。
もっとも美しく感じた場所は展望台から眺める景色で、山の直下には岩尾池と大沢池、奥に微かに見えるのは鈴鹿山系かもしれない。
岩尾山息障寺は甲賀と伊賀との境界にあるとはいえ、双方の文化や信仰が入り混じった地域のように感じます。
よく伊賀忍者と甲賀忍者に敵対関係があったように描かれることがありますが、摩崖仏などの石の文化や修験道や密教の文化には通じ合うものがあったと思わざるを得ません。
(2020年3月初旬 拝観)
「息障寺」は最澄が比叡山延暦寺を開山する時に、用材をこの山に求めたところ大蛇が木こりの道を妨げたため、最澄が禁竜の法で大蛇を倒し、木を伐りだすことが出来たとの伝承があります。
切り出された木材により比叡山の根本中堂が建設され、その報恩のため「息障寺」が開山されたといいます。
寺院は「池原延暦寺」と称されたと伝わり、「比叡山試みの寺」とも呼ばれているという。
寺院は甲賀市から林道へ入ると“三重県伊賀市”になり、寺院の直前に“滋賀県甲賀市”となることから、まさに両県にまたがる山を挟んだ県境となります。
対向車とすれ違うのも困難なような細い九十九折りの林道には湿地のような場所も見られ、道にキジが歩いていたりする秘境への道のようなところ。
山中には至る所に巨石があり、山伏たちが山岳信仰に励んだ行場だったと考えられており、修験道が盛んだった霊山とされています。
また、甲賀流忍者の修練場だったともいい、駐車場には忍者のモニュメントが置かれていました。
寺院へつながる林道を進むと「芭蕉の句碑」の石標があり、その先が旧の参道になっているようだ。
しかし、参道はゴツゴツした岩の道が続いており、本堂までの距離も分からない。
しかも参道入口の横には「賽の河原」というどうにも気味の悪い場所があり、上方に垣間見える参道には大きな岩がゴロゴロしているのが伺われる。
周辺人の姿や気配など全くなく、山の中でたった一人の状態ではとてもじゃないけど進む勇気はなく、参道からの入山はパスさせてもらう。
林道を登りきると、入山口である「黒門」があり、その横にはとんでもない大きさの「曼荼羅岩」というが鎮座している。
参道側にせり出して下の岩が支えているようですが、入山した早々に唖然としてしまう迫力の巨岩です。
黒門には林道の途中に入口のあった旧参道がつながってきている。
参道の入口・出口しか見ていませんが、旧参道までの入り口が人里離れた山の中腹にあることを考えれば、この山が修験道の山・忍者の修練場と呼ばれる一端が感じられる。
黒門からの石段を登ると本堂・阿弥陀堂が並ぶ領域となり、険しい雰囲気から解放される。
息障寺では春の会式として毎年2月に「採燈護摩」法要が行われ、現在も天台寺院として・山伏の寺院としての会式が伝わります。
本堂の左側には「四国八十八ヵ所巡り」の入口があり、山の中を一巡りできるが、「釣鐘堂」の横にある石段から「奥之院」への道を目指す。
「釣鐘堂」の前に立つ杉の巨木の上部がへし折れているのは2018年の台風被害の影響でしょうか。
奥之院への石段は勾配の強い石段ではあるが、道の両サイドに巨岩が見られるため、さほど辛くはない。
それよりもこれから石の山へと入っていく期待感で心が躍る。
釣鐘堂からわずかな距離にあるのは「行者岩」と呼ばれる巨岩と、1385年に彫られたという「摩崖地蔵菩薩坐像」。
苔むした行者岩と接する岩に彫られた摩崖仏には覆屋が掛けられていたようだが、壊れてしまって岩の前に落ちている。
摩崖仏は舟形光背を彫りくぼめた中に像高32センチの地蔵菩薩が鎮座しておられる。
寺院の説明書きによると“至徳二年”の刻銘があるといい、至徳とは南北朝期の北朝の年号とされています。
摩崖仏に刻銘された至徳二年(1385年)は南北朝が合一される直前の時期ともなるようです。
石段の横から山道へ入ったところにあったのは「八丈岩」と呼ばれる大岩でした。
この八丈岩は土に埋まっている場所があってサイズは計り知れないものの、“八丈”を字のまま読むと24mということになるが、まんざら虚飾でもないように思える広さだった。
石段を登りきると見えてくるのは「屏風岩」という山のように巨大な巨岩でした。
岩の下の部分は補強され、全体を落下防止のワイヤーで覆われていましたが、屏風岩の表面に触れてみると花崗岩が脆そうな感じがしましたので、維持のための補強が必要なのかもしれません。
屏風岩に彫られた「摩崖不動明王立像」は見えにくくはなっているものの、像高は5mにもなるという摩崖仏が線刻されています。
彫られたのは室町時代初期といいますから、石段の下方にあった磨崖地蔵菩薩坐像の刻銘画南北朝時代末期を示すことから、両者は近い時代に彫られたものともいえます。
下から見上げている当方の頭上遥かの高さに不動明王の顔がある。
地上20mもの高さを誇る屏風岩に造立されたこの摩崖仏があることで、息障寺は「岩尾の不動産」と呼ばれているといい、この摩崖仏を見るとその名称にも納得する。
屏風岩から先にも奇石・巨岩を巡るルートがあり、さらに先へ進んでみる。
甲賀市から伊賀市にかけての一帯には巨石と摩崖仏などの石文化があるとはいえ、これだけ巨岩が多いとあっけにとられてしまう。
名称は不明だが烏帽子のように尖がった巨岩には上部からチェーンが吊るされている。
たとえ登り切ったとしても腰を下ろすことも出来ないような岩のてっぺんで何をしようとしていたのでしょう。
「お馬岩」という奇石は馬の背を連想させるもの。
馬というよりも象の後ろ姿のようにも見えますが、日本に存在して尚且つ信仰を受けている馬に見立てて「お馬岩」と名付けられているのかと思われます。
ルートの曲がり角にあるのは叩くと木魚の音がするという「木魚岩」。
最初は何でこの岩が木魚なのかと不思議だったが、木魚の音がすると知ったのは帰ってからのこと。
そのまま道なりに登り方向に進むと、少し開けたところに出た。
おそらくこの巨石群の一番上方だと思われる場所で一息付く。
そのまま下山方向に進むと「四国八十八ヵ所巡り」の巡礼道と交差します。
年季の入った石仏が並ぶ道はあまりにも寂しく、同行二人という言葉はあるものの、再び元来た道へと戻る。
山道を歩く途中に眺望が開けている場所が何カ所かあり、美しい景色に見惚れてしまう。
もっとも美しく感じた場所は展望台から眺める景色で、山の直下には岩尾池と大沢池、奥に微かに見えるのは鈴鹿山系かもしれない。
岩尾山息障寺は甲賀と伊賀との境界にあるとはいえ、双方の文化や信仰が入り混じった地域のように感じます。
よく伊賀忍者と甲賀忍者に敵対関係があったように描かれることがありますが、摩崖仏などの石の文化や修験道や密教の文化には通じ合うものがあったと思わざるを得ません。
(2020年3月初旬 拝観)
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