hiyamizu's blog

読書記録をメインに、散歩など退職者の日常生活記録、たまの旅行記など

山本有三記念館へ

2011年01月26日 | 日記
井の頭公園から三鷹駅へ延びる風の散歩道の途中、山本有三記念館へ寄った。

山本有三は、「路傍の石」「波」「女の一生」「真実一路」などで知られる国民作家とも言えた(過去形)文学者で、この家に昭和11年から進駐軍に接収された21年まで居住し、この間「路傍の石」、戯曲「米・百俵」などを執筆した。
米百俵」は、小泉純一郎首相が最初の所信表明演説で引用したことで知られる。
館内には、山本有三の記念の品が展示されるとともに、建物自体も大正末期の本格的欧風建築で記念すべきものだ。

井の頭公園を出た万助橋から風の散歩道を200mほど行った左側に、路傍の石がある。



山本有三が「路傍の石」を執筆中の昭和12年、道ばたで見つけ、この家の裏庭に運び込んだと伝えられ、“路傍の石”と呼ばれるようになったと銘板にあった。

ここが入口。



建物の外部の石組みの暖炉煙突は珍しいらしい。閉まっているドアを押して入ると、この先は一人300円。



中は板張りで凝った洋風の部屋だ。



なかなか立派な暖炉が3つもある。



大正11年の井の頭公園の七井橋渡り始めの写真が展示されていた。当時から井の頭公園は庶民の行楽地としてにぎわっていた、とある。



二階には書斎があり、この部屋だけが和室だ。



机の上には、ド近眼のメガネが。



山本有三は文化勲章を受賞している。賞状は、「日本国天皇は」で始まる。



これが文化勲章。



屋敷の裏庭も、有三記念公園として開放されている。ここに入るのは、多分、無料。こちら側からみる建物も重厚だ。



ちょっとした竹林や、水のながれもあり、



あづまや風の休息所もある。



山本有三記念館は、山本有三を知っている人はもちろん、知らない人も一度は訪れたいところでした。



昭和23年の賃貸借契約書が展示されていて、この大きな家の借料が月額496円とあった。



山本 有三
1887‐1974。1887(明治20)年、栃木県生れ。東京帝大独文科卒。
1920(大正9)年、戯曲「生命の冠」でデビュー。
『波』などの新聞小説で成功を収める。
ひたむきな女医を描いた『女の一生』
勤め人一家の愛と犠牲の日々を書いた『真実一路』
逆境をたくましく生きる少年を書いた『路傍の石』
子供達に向けて書かれた『心に太陽を持て』
小泉純一郎が最初の所信表明演説のむすびで引用した「米百俵の故事」
戊辰戦争で焦土と化した城下町・長岡。その窮状を見かねた支藩より見舞いの米百俵が届けられた。だが、配分を心待ちにする藩士が手にしたのは「米を売り学校を立てる」との通達。いきり立つ藩士を前に、大参事小林虎三郎は「百俵の米も、食えばたちまちなくなるが、教育にあてれば明日の一万、百万俵となる」と論す。「米百俵の精神」を広く知らしめた傑作戯曲。

ウィキペディアによれば、
日本国憲法第14条に「栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない」とあるため、文化勲章受章者に年金や褒賞金を支給することができなかった。このため1951年(昭和26年)に勲章とは別制度として文化功労者を設け、これに年金を支給することで実質的に文化勲章年金の機能を持たせた。
年金支給額は文化功労者年金法施行令(昭和26年政令第147号)で定められ、現在の額は1982年に規定された年間350万円である。


文化勲章。念の為に申し上げておきますが、私はいっさいの勲章を拒否します。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする