早乙女勝元著『東京大空襲 ―昭和20年3月10日の記録―』(岩波新書(青版)775、1971年1月28日第一版発行)を読んだ。
表紙の裏にはこうある。
昭和20年3月10日.一夜のうちに東京の下町一帯を焼け野原に変え,8万人にのぼる死者で街や河を埋めた東京大空襲の惨状――.自身被災者でもある著者が,生きのびた人々を訪ね,戦後25年のあいだ埋もれていた記憶を再現しつつ,無差別絨緞爆撃の非人間性を暴き,庶民にとって戦争とは何であったかを訴える.
第1章~第4章は、当時12歳の著者、警視庁カメラマンの石川光陽氏、8名の下町庶民の証言集で、第5章は米空軍の効率的に焼殺すための戦略 が語られる。
1945(昭和20)年3月10日0時15分、空襲警報発令、それから2時37分まで正味142分間(約2時間半)に、死者88,793名、負傷者49,000名、罹災者100万名と東京の4割を焼き払った東京大空襲。
敵は最初に環状に火の雨を降らせ、火の壁で周囲をふさぎ、その中心にむかって集中的してくる群衆の頭上に、無差別攻撃を決行しようというわけである。(p39)
言問橋の上の、その凄絶さといったら、これはもうたとえようがありません。とにかく、見わたすかぎり山と積まれた焼死体橋なのですよ。ええ、黒焦げの死体だらけなのです。……一本のほそい道が、二尺ほどの道はばとなって、こううねうねと対岸へのびてました。…(p141)
写真 背中だけが異様に白く、他は黒焦げであおむけに倒れている黒焦げ死体。傍らに仰向けに幼子の黒焦げ死体がある。
「子どもを背負ったまま倒れた母の背中は白い。幼いこどもは、爆風に吹きとばされて焼けたのか。3月10日、浅草花川戸にて」(p147)
大本営発表(ラジオ)
本三月十日零時過ぎより二時四十分の間B29約百三十機主力を以て帝都に来襲市街地を盲爆せり
右盲爆により都内各所に火災を生じたるも宮内省主馬寮は二時三十五分其の他は八時頃迄に鎮火せり
現在迄に判明せる戦果次の如し
撃墜 十五機 損害を与えたるもの 約五十機 (p159)
私の評価としては、★★★★☆(四つ星:お勧め、 最大は五つ星)
もはら遠い彼方の話になってしまった東京大空襲。この本は、実際に被害にあい、都内を逃げまくった人の体験談が主で、写真集とは違って心に訴えかけるものがあった。
下町には軍事施設はなかった。しかし、小さな工場があり、民家を区分けは困難との屁理屈で、民家、非非戦闘員、一般大衆を効率よく殺戮したのだ。
1964年12月、作戦を主導したカーチス・ルメイ将軍には佐藤内閣から「日本の航空自衛隊の育成に努力した」として勲一等旭日大綬章が与えられた。
わずか2時間半の間に死者約10万人。太平洋戦争下の最大の悲劇に数えられるべきものなのに日本側の調査や記録はきわめて乏しい。マスコミも冷淡だ。「戦後22年間の朝日新聞は、東京大空襲について数回しか書かなかった」
早乙女勝元(さおとめ・かつもと)
1932年東京・足立区出身。1946年小学校高等科卒。作家、児童文学作家。
一生をかけて炎の夜を語ってきた。戦争関連の本を100冊以上出版しただけでなく、毎年のように朝日新聞の「声」欄に投稿し、30回以上掲載された。元東京大空襲・戦災資料センター館長