海野聡著『森と木と建築の日本史』(岩波新書(新赤版)1926、2022年4月20日岩波書店)を読んだ。
表紙裏にはこうある。
衣食住から信仰に至るまで、日本の歴史とは、木とともに歩んだ歴史であるといっても過言ではない。森のめぐみを享受した先史時代、都城や寺院などの大量造営が展開した古代から、森との共生を目ざす現代まで――建築のみならず流通にも着目し、また考古・民俗・技術などの知見も駆使して、人びとが育んだ「木の文化」を描く。
古代から現代まで、大規模寺院建設に伴う巨木入手が徐々に困難となってきた中で、さまざまな工夫、苦労の歴史を詳細に語っている。
日本は、国土の70%が森林であり、現代までの日本人の住居はもちろん寺院なども豊富な木材を利用した木造だった。木々はさまざまな家具なども含め、日本人の生活の中に溶け込んでいた。しかし、大規模寺院建築が続き、ヒノキの巨木の入手ができず寺院建設に困難がともなうようになってきた。樹種の多様化とともに巨木の伐採地域が奥地へ拡大し、運搬手段も進歩を強いられた。いよいよ入手が限界に近づき、森林の伐採と育成のバランスの試みが始まった。
私の評価としては、★★★★☆(四つ星:お勧め、 最大は五つ星)
タイトルは『森と木と建築の日本史』だが、主な話は大規模寺院建築の巨木に限っていて、一般住宅についてはほとんど触れていない。また、個別例だけで全体のデータは示していない(存在しないのかも)。
巨木の話は興味を引き付ける話題で、いかに巨木を求めて苦労したかは面白い話になっている。
寺院建築の細部に話が及び、聞きなれないし、読めない漢字の名前が出てくるのだが、図などで明示したり、出てくるたびに振り仮名をふって欲しかった。
海野聡(うんの・さとし)
1983年,千葉県生まれ.2009年,東京大学大学院工学系研究科建築学専攻博士課程中退.博士(工学).奈良文化財研究所を経て,現在は東京大学大学院工学系研究科建築学専攻准教授(専門は日本建築史・文化財保存)
著書『奈良で学ぶ 寺院建築入門』(集英社新書)、『日本建築史講義――木造建築がひもとく技術と社会』(学芸出版社)、『古建築を復元する――過去と現在の架け橋』(吉川弘文館)、『建物が語る日本の歴史』(吉川弘文館)、『奈良時代建築の造営体制と維持管理』(吉川弘文館)
目次
序章 日本の森林と木の文化
第一章 木と人のいとなみ
一 森林と人のかかわり
二 生活のなかの木材と森林の変化
三 木の特性を知る
四 木を加工する
第二章 豊かな森のめぐみ――古代
一 豊富な資源が可能にした大量造営の時代
二 産地から現場まで――どのように運ばれたか
三 適材適所の利用――各地の事例から
四 木の特性を熟知していた古代人
第三章 奪われる森と技術のあゆみ――中世
一 巨材の減少――大仏殿造営からわかる資源枯渇
二 進む利権化
三 樹種を使い分ける
四 革新的な道具の登場
五 海をわたる木材
第四章 荒廃と保全のせめぎあい――近世
一 消極的保全から積極的保全へ――資源保護の模索
二 大火がもたらした流通の変化
三 広がる樹種の選択
四 信仰を受け継ぐために――御杣山と神宮備林
五 巨材の探求と技術革新
終章 未来へのたすき――近代から現代
一 今もつづく運搬の苦労
二 木材不足から紡ぐ森林へ
三 おわりにかえて
あとがき
以下、私のメモ
広葉樹は細胞が蜜で硬く重く、針葉樹は密度が低く柔らかく軽い。
杣取り(そまどり):山から木材を伐り出す。
杣(そま):木を植え育てて木材をとる山。山から木材を切り出す人。
古代
7~8世紀は、仏教の公伝以降の寺院建設や都城の建設など大きな造営ラッシュの時期で、これを支えたのが日本列島の豊富な森林資源。
法隆寺をはじめとする古代の諸建築はヒノキで建立されてきた。
ヒノキの植生限界は福島県付近。東北には秋田のスギ、青森のヒバ(アスナロ)がある。
日本の塔は基本的に上層に登ることはできず、二層以上はみせかけの装置で、中心の心柱を保護するために存在するといっても過言ではない。
屋根の板葺きには、一枚の厚板を葺く厚板葺と薄い板を何層も重ねて葺く柿葺(こけらぶき)がある。檜皮葺(ひわだぶき)はヒノキの樹皮を剥ぎ、何枚も重ねて葺材とするもので、ヒノキが日本と台湾にしかないために日本独特なもの。
唐から持ち込まれた仏像は南方系の香木類のビャクダンで造られている。日本では代わりに、榧(カヤ)やクスノキが使われる。
中世
鎌倉時代再建の大仏殿の、柱は約20m太さ156㎝や、22m太さ144㎝。棟木は長さ39mで、畿内の森林資源の枯渇のため木材集めが第一の課題で、運搬も困難だった。
近世
森林の荒廃と保全のせめぎあいが起こる。奥地からの新しい運搬ルート開発も角倉家や紀伊国屋文左衛門により行われ、特権的膨大な利益を上げた。
伊勢神宮のための森
伊勢神宮では内宮、外宮ともに、それぞれ東西同じ大きさの敷地があり、20年ごとに隣りに新しい社殿を造り替え、とくに式年遷宮という。690年以来、中世の中断をはさみつつ2013年の第62回遷宮まで続いている。
式年遷宮による古社殿の部材は、鳥居など他の場所で再利用される。
用材のヒノキは非常に太く、長い材で、20年毎に1万本以上必要になる。供給する山を御杣山(みそまやま)といい、当初は近隣の山々から供給されていたが、平安時代以降困難になった。1709年からは遠く木曽に御杣山が移された。大正4(1915)年には造営材備林制度が定められ、100年伐採しない永久備林と今後100年の造営材とするための臨時備林の二つによる神宮備林が設けられた。
毛綱
東本願寺御影堂建設にあたり巨材を運ぶための引綱は強度を上げるために、女性の髪と麻を編み込んだ太さ30㎝の毛綱が用いられた。