hiyamizu's blog

読書記録をメインに、散歩など退職者の日常生活記録、たまの旅行記など

シャルトルのノートルダム大聖堂へ

2009年07月10日 | 観光

フランス・ロワール地方の古城、アンボワーズ城、シュノンソー城、シャンボール城を回った後、バスは大穀倉地帯ボース平野を進み、



イル・ド・フランスにあるシャルトルに着く。すぐに、鮮やかなステンドグラスで知られ、フランスのゴシックの大聖堂で最上級といわれ、世界遺産でもあるシャルトル大聖堂が見える。



12世紀から13世紀にかけて建造され、正面から見て左の尖塔(北鐘楼112m)はゴツゴツしたゴシック様式で、右(南鐘楼103m)が、古いロマネスク様式の塔だ。



これが、ゴシック様式で、



これが、ロマネスク様式だ。



そして、これがステンドグラスを外から見たところだ。



中に入ると、こう見える。これがシャルトルブルーだ。
というか、これだと言うほどの写真ではなく申し訳なし。私のコンパクトカメラは手振れ防止機能なしの旧型なので、とくに暗いところの写真は人様にお見せできるようには撮れない。



下の3つのステンドグラスは特に青が美しい。左下から聖書の物語を描いている。



ステンドグラスは173個あるというのだから、もう一つ。



バラ窓も。



6ユーロ支払い、高い方の尖塔のラセン階段を登った。



なにしろ、この状態で350段。キツイが若いものには負けたくない。なにしろ、冷水俊頼なのだから。
ようやく一休みできる中腹で外を眺めるふりをして一服し、そしてまた登る。ようやく頂上で外に出たと思ったら、まだ上がある。しかし、登ってみると、数段で本当の頂上だ。
下を見ると、快感!



歩いてきた広場があり、右上にシャルトル駅が見える。



鐘楼とあったので、鐘を探すと、あった。



上を見ると、怪物の形をした水の排出口が突き出している。



となりの南鐘楼(103m)がすぐそばに見える。



ちょうど、工事をしているところだった。



と、これはウソ。展示室にあった写真だ。

ガクガクと膝を笑わせながら、下りた。翌日、モモはまったく痛くなかったから、たいしたものだと思ったら、案の定、翌々日に筋肉痛。年寄りの冷水はいけません。


これでいよいよ、北東80kmほどのパリへ向かう。そしてようやく、エッフェル塔が見えてきたところで、パリは次回以降に。




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ロワールで古城めぐり

2009年07月09日 | 観光

フランス・ロワール地方で3つの古城、アンボワーズ城、シュノンソー城、シャンボール城を回った。

ロワール Loireはフランス中部にある。その中心を流れる1012kmとフランス最長のロワール川流域にはかって約90もの城があり、現在でも約20の城が残っているという。ちなみに、日本最長の信濃川は367km。

まず、バスが向かったのは15世紀にはフランスの首都でもあったトゥールTours 。市庁舎には、EUの旗、フランス国旗、ロワーヌの旗が立っていた。



市庁舎と裁判所の間の通りを北のロワーヌ川の方に行くと、左手に14-15世紀の木骨組みの家に囲まれたプリュムロー広場があるはずだが、このところフランスはバーゲン・シーズンで、手前のデパートで時間切れ。



バスでトゥール駅前を通り過ぎる。パリからTGVで約1時間10分。この駅舎は、後にオルセー美術館になったオルセー駅と同じく、ヴィクトール・ラルーの設計。



トゥール郊外で一泊し、翌朝、まずやってきたのは、アンボワーズ城 Chateau Royal d’Amboise 。15世紀末、イタリア遠征から帰ったシャルル8世がルネッサンス風に建てた城だ。ロワーヌ川の対岸から城を眺める。これでもかっての規模の1/5だという。





フランソワ1世にイタリアから招かれたレオナルド・ダ・ヴィンチが住んで、没したル・クロ・リッセが城の奥にあるはず。岸辺にはダ・ヴィンチの、頭脳より肉体というような像があった。寄りかかっている頭部が何なのかは不明。




次は、ヴェルサイユ宮殿に次いで、フランスで2番目に観光客の多いシュノンソー城 Chateau de Chenonceau 。 右側の独立した塔、正面の3階建ての棟と、





シェール川をまたぐ橋の上建物の3つの部分に分かれている。端の上の建物は後に3階建てとなった。橋の上の建物は、川から撮ると優雅な船のようで美しいのだが、写真を撮り損ねた。



代々の城主が女性だったことから「6人の女の城」と呼ばれる。2番目の城主ディアーヌ・ド・ポアティエはアンリ2世より20歳も年上でありながらその美貌で王を虜にした。彼女はアーチ型の橋を建設し、向こう岸と結び、城の左手に後にディアーヌの庭と呼ばれる庭園を造った。



しかし、アンリ2世が死ぬと、正妻カトリーヌ・ド・メディシスはディアーヌを追い出して城主となり、城の右手にカトリーヌの庭と呼ばれる庭園を造った。





これが、そのカトリーヌ・ド・メディシスの肖像。怖そ!



カトリーヌは、名門、イタリア・フィレンツェのメディチ家の娘として生まれ、イタリアの先進文化をもたらした。当時手づかみで食べていたフランスにフォークや、アイスクリームを伝えた。嫁入りの際にイタリアから持ち込んだ菓子がマカロンのもととなったという。

城内には、多くの部屋があり、豪華な家具やタペストリーがある。ひとつだけ、カトリーヌ・ド・メディシスの居室を紹介。16世紀のフランドル・タペストリーと天蓋ベッドのほかに有名な絵画が飾られている。




最後が、ユネスコ世界遺産でもあるシャンボール城 Chateau de Chambord 。1519年、フランソワ1世が狩猟用離宮として建設しはじめた。全体は、全長32kmの壁に囲まれ、5440ヘクタールというパリ市に匹敵する広さの公園になっている。



正面から見ると、左右対称になっているのが良く分かる。幅156m、高さ56m、77の階段、282の暖炉、426の部屋と桁外れの規模だ。



この後、イル・ド・フランスにあるシャルトルブルーのステンドグラスで知られるシャルトル大聖堂に行ったが、それは次回。





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モン・サン・ミッシェルの中を見学

2009年07月07日 | 海外

フランスのモン・サン・ミッシェルLe Mont Saint Michel に行った。前回に引き続き、今回はモン・サン・ミッシェルの中の話。

島の入口であるアヴァンセ門を入ると、イギリス軍が置いていった2門の大砲と、インフォメーションがある。その先の跳ね橋付きの王の門を入る。



左側に1888年オープンのホテル・レストランのラ・メール・プラール(プラールおばさんの意味)がある。巡礼者が不意に到着したときに即席で作れることからプラールおばさんはじめたというオムレツが名物になっている。



島を出てから別のレストランで前菜として出てきたオムレツがこれだ。



卵を泡立ててふっくらと仕上げてある。ふわふわしてなんだか頼りない。そういえば、昨日のホテルの夕食には、海辺の草を食べて育ち、潮の風味があるとガイド本にある子羊が出たが、潮の風味も臭みに負けていて、評判が悪かった。「名物にうまいものなし」か。

土産物屋が両側に並ぶ狭い道の、大通りという名前なのだが、脇道の階段を登り、城壁の上の道を行く。左下に大通りが見下ろせる。城壁には、石落としの窓や、矢を射るための穴がある。まさに要塞なのだ。



大天使ミカエルの金ぴか像が32mの尖塔の上に輝く。これから行く巡礼者の食堂の横にある展示室に彫刻家フルミエによる石膏模型が置かれている。右手に剣を左手にはかりを持っていて、ドラゴンを押さえ込んでいる。本物は4mの高さあり、全体に金メッキを施されている。





なおも階段を登っていく。





ところどころ土台となっている岩山が顔をだす。



壁から飛び出している怪物の像は、積み上げた岩が水を含んでもろくならないように水を外に出すためのものだ。岩つくりの建物にはよく見られる。



ほぼ登りきって、修道院付属教会の前庭である西側テラスに出ると、約80mの高さから三方が見渡せる。モン・サン・ミシェルへは堤防を来るほかに、今でも巡礼者が訪れるように干潟を歩いて来ることもできる。ただし、足が抜けなくなる恐れがあるので、ツアーガイドの案内か、馬に乗るのがお勧めだ。遠く北方に見えるのはTombelaineトンブレーヌ島だ。



修道院付属教会は標高80mの岩山の頂上の上に80mの高さで建設されている。身廊(入口から祭壇に向かう通路の入口側部分)の天井は板張りのロマネスク様式だ。



1421年に崩壊した祭壇側部分はアーチの石の天井を持つゴシック様式で再建された。色使いを抑えたステンドグラスもさわやかだ。





教会を左手に出ると回廊がある。まるで屋上庭園のようだ。重量を軽くするために列柱の骨組みには木材が使われている。歩きながら回廊から中庭を見ると、わずかにずれながら2列に配置された列柱が不思議な効果を生む。





回廊から外を覗くと、小さく何人か人が見える西のテラスがある。



木組みの船形屋根を持つ修道僧たちの食堂を通って、1階下へ降り、食堂の真下の迎賓の間に出る。太柱の礼拝堂、マルティヌス礼拝堂と、このあたりの外壁は上の修道院付属教会のゴシック式内陣を支えるため、非常に厚く作られている。



礼拝堂を出ると、大きな車輪がある。重い荷物を下から上げるための車輪で、こまねずみのように中に人が入って回すのだ。この車輪は1820年に囚人用の食べ物を下から運び上げるために設置されたもので、中世の工事現場で使われていたもののレプリカだ。おそらくモン・サン・ミッシェル建設の際も、似たような車輪で花崗岩を引っ張り上げていたと思われている。



車輪がロープを巻き上げ、



滑車で方向を変え、



下から荷物を引き上げる。






「一日に何度も良い天気になる」(天気が変わりやすい)と言われるノルマンディー地方で一度も雨に会うことなく、ジヴェルニー、ルーアン、モン・サン・ミシェルと回って、古城が点在するロワールに向かった。では、次回。



以下、参考まで

大天使ミカエル
モン・サン・ミッシェルMont Saint Michelの、Mont は山、Saint Michelは天使の軍団長の大天使ミカエルだ。
ヨハネの黙示録に登場するミカエルは、悪魔の象徴である竜と戦い打ち倒す。来世への不安を抱えて生きていた中世の人びとには、ミカエルは最後の審判を迎えた日の魂を癒すとされ崇拝されていた。492年にイタリアのカッシーノ山で最初の聖堂が建設されたのをきっかけとして、ミカエル崇拝は普及し、1000年頃にはミカエルを奉った教会やチャペルがヨーロッパ各地に建設された。

モン・サン・ミッシェルの歴史
708年司教オベールが夢の中でお告げを受けて小さな礼拝堂をこの地に建てた。
966年から修道院の建設が始まり、増改築が繰り返され、多くの巡礼者が訪れる聖地になった。
英仏海峡に浮かぶモン・サン・ミッシェルは、英国との100年戦争の間、要塞としてついに侵攻されることなかったことから、フランスの象徴ともなった。
フランス革命により修道会が散会されると、モン・サン・ミッシェルは、監獄として使用された。
1874年には歴史建造物として大掛かりな修復工事が始められ、現在でも続いている。
1979年ユネスコの世界遺産に指定された。


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モン・サン・ミッシェルへ

2009年07月06日 | 海外
フランス・ノルマンディー地方のルーアンからカンCaenを経て、モン・サン・ミッシェルMont St-Michel に行った。NHKで放送されてから急に人気が出ているという。インフルエンザ騒ぎがなければ、大変な人数の日本人が押し寄せただろうという。

バスの窓から平原の向こうにモン・サン・ミッシェルのシルエットが姿を現すと、ツアー客から歓声があがる。



ホテルに着いて、2階の食堂に上がると、遠くに見える。この道をまっすぐ進めば、そのまま堤防の上の道となり、モン・サン・ミッシェルへ着く。



ホテルの部屋のベランダからもかすかに見える。現在、モン・サン・ミッシェルへ行くのは堤防があるので満ち潮のときでも容易なのだが、砂の堆積が激しく環境が変わりつつある。このままではいけないと、堤防を壊して、歩行者用橋にすることが決まった。もう一度、モン・サン・ミッシェルを島に戻そうという計画だ。手前のダムは引き潮時に一気に放水し砂を流すために建設中なのだ。



夕食後、ぶらぶら歩いたが、モン・サン・ミッシェルはまだはるかな地点であきらめて引き返した。



ホテルに戻り、部屋から眺めることにしたが、夜11時になっても完全には日が落ちない。これ以上は待てないので写真を撮って寝た。



翌朝、バスで堤防の上を進む。どんどん近づいてくる。手前は大潮になれば海水で満たされる。



バスが止まった撮影ポイントで撮った写真がこれだ。これまでの写真は望遠で、といっても3倍なのだが、ぼけていたが、それほどズームしなくても画面いっぱいになる。くっきり細部まで見える。といっても、一つ前の写真の遠景のシルエット的な方が絵になるような気がする。



もう一つおまけ。



堤防の上をモン・サン・ミッシェルのすぐ手前までバスで行って駐車できる。堤防を壊して橋にすると、車は橋の手前に止めて、人はシャトルバスに乗り換えないといけなくなる。自然回復も善し悪しだ。



堤防の下は潮が引けば駐車場になるのだが、まだまだ潮が引かず車が整備中。



城壁から中に入って、堤防を上から見たときには、だいぶ潮が引いて、右側の駐車場にバスが1台止めてあった。



さらに時間がたつと、ゆうゆうとバス10台以上が並んでいた。



モン・サン・ミッシェルの中に入ったところは次回。










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東京バロックアンサンブルを聞く

2009年07月04日 | 趣味

フランス旅行報告の途中だが、コンサートの話を1回だけ挟みこむ。

東京バロックアンサンブルによる、盲導犬育成のためのチャリティー・コンサートを聞いた。
吉祥寺駅近くの武蔵野公会堂で7月3日午後7時から開催され、350の客席がほぼ満席となる盛況だった。

東京バロックアンサンブルは、1974年、岡村考二を中心に、フルート・オーボエ・ヴァイオリン・ヴィオラ・通奏低音(チェロ・チェンバロ)という編成で結成され、バロック音楽を中心に演奏活動を行っている。



フルート、オーボエ、チェロ、チェンバロのアンサンブルのほか、フルート、チェロ、チェンバロそれぞれの独奏もあり、2時間あまりの久しぶりのバロックを楽しんだ。



代表者のフルートの岡村考二さんの曲の簡単な説明もあり、J.S.バッハ(大バッハ)、G.Ph.テレマン、G.F.ヘンデルや、大バッハの息子であるW.F. バッハと、J.C.F.バッハの曲が演奏された。岡村さんの解説では、確か、息子たちは、バロックから古典派への橋渡しの役を果たしたと言っていたと思う。
私は、ヨハン・ゼバスティアン・バッハに何人かの音楽家の息子がいて、遺伝学の研究材料になっている話は知っていたが、息子たちの名前も、曲も初めて聞いた。

ヴィルヘルム・フリーデマン (Wilhelm Friedemann、1710 - 1784) は長男で、通称「ハレのバッハ」。 ヨハン・クリストフ・フリードリヒ (Johann Christoph Friedrich、1732 - 1795)は 五男で、通称「ビュッケンブルクのバッハ」とウィキペディアにある。



チェンバロ(英語ではHarpsichord)もピアノのように澄み切った音でなく、こすれたような独特の音で、慣れてくるとこれもなかなか良い。ペダルがないし、演奏は難しそうだ。開演前も長い時間かけて調律していた。

チェンバロ奏者の大原裕子さんの娘さんが吉祥寺南町眼科の院長で、その縁で、この公演の収益を、近くの関町にあり、盲導犬を育成している財団法人アイメイト協会へ寄付することになったようだ。
盲導犬育成団体は日本に9団体もあり、その間に共通の“盲導犬”の基準がないという。なにか、いろいろな考え方があって難しそうだ。



私は、現在でもクラシックの熱心なファンではないが、若いときはとくにバロックが苦手だった。単調でメリハリがなく、すぐに眠くなった。
テニス部の合宿で長野県の松本に行ったとき、炎天下の練習の中休みで体育館の中でくたびれきって寝転んで休んでいた。誰かが持ち込んだラジオから音楽が聞こえる。バロック音楽だ。モノラルの放送、小さく音質の悪いスピーカー、やたらと響く体育館。それなのに、疲れきった身体にこの世のものとも思われない心地よい音楽が染み渡る。「バロックって良いものだなあ」とそのとき思った。
以後も、とくにバロックのファンになったわけでもなく、感動的な新世界や、楽しいモーツアルトをときどき聞くくらいだが、今でもバロックを聞くと、あの松本の体育館で寝転んでいる自分を思い出す。


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古都ルーアンへ

2009年07月03日 | 海外

印象派のモネの連作の舞台ノートルダム大聖堂や、ジャンヌ・ダルク終焉の地で知られるフランス・ノルマンディー地方の古都ルーアン Rouen へ行った。

パリそして前回報告のジヴェルニーを経て、セーヌ川沿いに北西のルーアンを目指してバスは進む。ハンギング・バスケットのあるセーヌ川にかかる橋を渡ってルーアンに入る。



手入れの行き届いた並木が見事だ。



まもなく、ルーアンのノートルダム大聖堂が見えてくる。ノートル・ダムというのはわれらの貴婦人(聖母マリア)という意味で、12世紀の聖母マリア信仰から建てられた寺院のことなので、各地にある。



サン・マクルー教会の前を通った。15世紀のゴシック建築だ。外壁を支えるため空中にアーチを架けた飛梁(フライング・バットレス flying buttress ) がよく見える。



英仏百年戦争を勝利に導いたジャンヌ・ダルク Jeanne d’Arc は19歳で魔女として火あぶりになった。1431年に処刑され、1456年に名誉回復された。処刑された旧市民広場に建てられたのがジャンヌ・ダルク教会だ。海をイメージしたという変わった、別名現代的な、教会だ。ミサが行われているので中には入れなかったが、古い教会から移されたステンドグラスがあるそうだ。





処刑された場所には剣をイメージしたという十字架が立てられている。集まった人びとに良く見えるようにジャンヌ・ダルクは高い位置に吊るされ、足元にはうずたかく薪が積まれたという。
年間100日が雨というルーアンだが、この日の空は泣いていなかった。



ジャンヌ・ダルク教会の前の広場には、木組みの建物が並ぶ。左端はLa Couronne というレストランで、ルーアンに来た各国首脳や著名人が必ず寄るという。



ジャンヌ・ダルク通りを横切って進むと、金色の大時計を掲げたアーチがある。



ルネッサンス様式の時計は14世紀のもので、羊の一本針は今、Ⅱを指している。文字盤も4が“VI”でなく“IIII”になっている。“V”が逆さまになっているのは、昔は文字盤の方が動いたなごりだという。



ノートルダム大聖堂は、あとから建てた右側の塔が高かったため、左側の塔の上部を追加した。後ろに見える尖塔は19世紀に完成したフランスで始めての鉄製の塔で152mある。








モネが大聖堂を描いたのは、広場の向かい側の建物の3階の左から2つ目の高い窓だ。実際にそこから見た大聖堂はこう見える。



この景色で、日の出、昼間、夕方など各種天気、時間による光の変化をモネは捉えたのだ。



大聖堂の中に入る。祭壇は常に聖地エルサレムのある東へ向かって建てられている。



ステンドグラスは色鮮やかで細かい模様が13世紀のものだ。



当時はラテン語の聖書しかなかったので、聖書を読めない一般大衆に教えを伝えるための物語をステンドグラスに描いている。順番は左下から右上へ読む。



明るい色のものは14世紀のステンドグラスだ。



ルーアンの町で見かけた光景を二つ。
これが1500年ごろ建てられたもっとも古い家で、1階より2階、2階より3階が道路側に張り出している。汚物を道路に投げ捨てるのに便利だったからという。



端が欠けた陶器の皿。欠けた部分に首を当てて髭を剃るためのものだ。ただし、お土産品。







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ジヴェルニーのモネの家と庭園

2009年07月01日 | 海外
パリからセーヌ川沿いをバスで北西へ下り、ジヴェルニー Givernyのモネの家と庭園に行った。
団体用の入口を入り、細い道を行くと、あの池が見える。



太鼓橋を渡って、池の向こう側に出る。モネが掘って作ったのだから、それほど大きな池ではない。



残念ながら、ハスの花はまだ咲いていなかった。



花々と木々が一杯の池の周りの道をぐるりと一周して振り返ると、奥の橋には人が一杯。モネが晩年の36年を過ごしたのが、この池、この家なのだ。



もう一度、池を振り返って、



花畑を通って、家の前にでる。



家の中は壁一面の浮世絵だ。写楽の大首絵など有名な絵が一杯。日本人として誇らしい。
2階の窓から庭を眺める。



しおれたバラを切り取っている人がいる。やはり自然のままというわけにはいかないようだ。



池の周りと、花畑の花をいくつか。ホタルブクロ?ケシ?クレマチス










売店を通って出口に出る。最近の美術館などは売店を通らないと出入りできないところが多い。ここが団体でない個人の入口になる。この道を駐車場まで歩く。



パリの北西約70km、車で一時間ほどなのに、ジヴェルニーの村には、落着いた家が多い。





おとぎの国に出てきそうな可愛い家もある。





午後からさらに北西のルーアンRuenに向かう。


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