この頃は併読をしている、読書時間は一日15分程度だから遅々として進まないが楽しみの一つではある
吉村昭を二冊、この前見た映画(テレビ)「うなぎ」が含まれている短編集「海馬(とど)」と「関東大震災」、宮本輝の長編の全9巻「流転の海」ようやく6巻に突入した
イザベラバードの「朝鮮紀行」「日本紀行(上)(下)」を読み返し始めた
、これらを思い付きでとっかえひっかえ読んでいる
今日は従妹(いとこ)の1周忌法要に出た、子供の時から障碍があってずっと施設に入っていた子だった
亡くなった一年前は50歳半ば前くらいだと思う、車いす生活でヘッドギアをいつもつけていた、骨がもろく骨折もしたようだ
住職は40代、前住職は私より少し年上だが近年亡くなった、その前のおじいちゃん住職はなかなかの粋人だった
共産党だという話だったが魚供養で毎年、組合でお願いしたのだが読経の後の説法が面白い
紙一枚に手書きであれこれ書いてある、内容と言えば男女の恋愛とか艶っぽいことが書いてあったり、なかなか魚屋の興味を引くのがうまい
とても堅苦しい坊さんとは思えない人で人気があった、かといって度を越した好きものと言うわけでなく立派な住職だった
度を超すと言えば「今日は無礼講だから・・・」などと前置きでおこなう会社の宴会ではときどきもめ事がおこる
「無礼講」の意味を曲解した若手社員が上司の肩を叩いたり、手をかけたり、上下関係を忘れた無礼極まりない罵声をあびせたりして起こることが多い
そして「『無礼講』と言いながら結局怒り出す度量の狭い上司だ」などと罵る
まあ上司も上司で最初から無礼講などと言わなければいいのだ
いずれにしてもわきまえて度を越してはならないということだ、素面になってからの仕返しが怖い
位牌の後方に阿弥陀如来の姿をじっと見ていた
そして考えた、阿弥陀様はどこから来たのだろうか、地球ができる前からいらっしゃったのだろうか?
地球ができて造物主である神様たちは恐竜も作ったのだろうか
阿弥陀さまも神様も本当は高度な文明の宇宙人で、地球に来て原始の地球人を導いてピラミッドなどを作って去って行ったのではないだろうか
キリストや釈迦は宇宙人の子孫ではなかったのだろうか
阿弥陀様は亡くなった人の手を取って極楽へと導いてくれるという、なのに亡くなると三途の河原で「おしょろばあさん」に検査されて地獄、極楽に振り分けられるという
三途の川で溺れて地獄に流れ着く、正しい人生をおくった者は極楽浄土へと
地獄へ落ちる者を阿弥陀様はお救いにならないのだろうか、でも浄土真宗では極悪人であっても阿弥陀様はお救い下さると説く
ただひたすら「南無阿弥陀仏を唱えなさい、そうすれば出家しなくとも仏になることができる」と
今日は一つ疑問がとけた「南無阿弥陀仏」を唱えるのは亡き人の冥福を祈るのではなく自分に対しての「南無阿弥陀仏」だと
それは仏壇の前に座って手を合わせるたびに考えていたことだった
仏に向かって唱えるのか、自分が救われるために唱えるのかといつも思っていたが今日、住職の説教でわかった
親鸞上人と言う人は時代の革命児だったと思う
死後の世界でもこの世と変わりない繁栄を願う貴族や武家の為の宗教だったところに突如、救われぬ数多の庶民、罪人を救う宗教があらわれたのだ
難しい理論理屈哲学も、厳しい修行もいらない「ただひたすら南無阿弥陀仏の六文字を唱えなさい」極悪人も許されて極楽往生できると
当然ながら特権階級と既存の宗教から迫害された、それでも流刑地にあればそこでまた布教して信者が増えていく
「門徒もの知らず」それでも救われる、坊さんも妻帯してよい、子を成しても良い、魚肉を食っても良い、戒律厳しい古宗教に反するものであった
今でも浄土真宗は簡素化された決まりごとが多々ある、葬儀でのお清めの塩はいらないなどだ
戒律厳しい禅宗の僧の多くは髪を究極まで剃って崇高な雰囲気であるのに対し、真宗の僧侶は長髪が多い
私の祖先は代々鎌倉北条家に庇護された臨済宗であったが、戦争のどさくさで父の代から真宗にかわった
北陸、加賀能登、越後、佐渡はとくに浄土真宗が多い地域である
わたしのような「とびすけ」には気楽な真宗が合っているかもしれない