神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

U~~~~~今度は腰が!

2017年06月11日 08時26分55秒 | 病気と健康

昨日昼頃から左の腰に違和感あり、指で押したりしていたんだけど

だんだん痛くなってきて、痛い範囲も広がりだした

夜寝る前が最悪で立ったり、座ったりする度に「いたたたたた~~」

同年代や若い者が結構腰痛で通院や手術をしている中、私は腰痛の無い男を自慢していたんだ

だけど今度ばかりは(人並みになったか?)と思った

しかし考えてみたら1年前か2年前にも腰骨が突っ張る様な痛みを感じて、初めて腰のコルセット

サポーターを買って巻いてたことを思い出した(そっか 前にもあったんだ)

それで朝起きたら自宅に戻ってサポーターを巻こうって考えて寝た

寝ていると痛くない、ただ起きるときが痛くて、階段の上り下りも痛くて、トイレは階下だし

今夜は朝まで熟睡頼むよ! って思って寝たのに、こんな日に限って想定外の異常な頻尿

夜中に三度も催して、その度に「いたたたったた!」とうめきながら起きて、階段下りて

階段登って、布団に横になる、地獄の夜だった。

 

原因を考えてみた、*歳のせい *医者の薬のせい *遊びすぎ?  *酒の飲み過ぎ?

*筋肉が弱まって骨がずれた?  *もしかして心臓病の痛み?

 

だけどわかった、これは骨のずれ(ヘルニア)なんかではなくて、「朝かなりハードなスクワットなど

急激に行ったのが原因だろう、それで筋肉痛か筋肉の炎症を起こしたのだろう」と得意の自己診断

それならコルセットはいらない

今朝になって起きたら、少しずつ痛みの範囲が狭まってきた、やはり筋肉痛のようだ

昼過ぎには元に戻るだろう  これにて一件落着  腰痛の無い男はまだ続く

 


父の戦争と浅草

2017年06月11日 07時28分46秒 | 昭和という時代

僅か50年くらいの間に世の中も随分と変わりまして

われわれの田舎から、花のお江戸まで蒸気機関車が「ジャチャポッポ」と黒煙を

吐き、細かな石炭殻で目をしょぼしょぼさせながら12時間かかって行きましたが

今は華麗なる流線型の北陸新幹線で2時間余りで着く様になりました

昔はお江戸と言えば、上野浅草がワンセットで、北信越や東北の終点は上野駅

少し足を伸ばせば華やかな銀座や東京駅があるけれど、上野公園と浅草寺がホッとする東京

集団就職で中学卒業と共に東京の下町に就職した先輩たちも、やっともらった休みには

親方の自転車を借りて浅草まで遊びに出てくる、浅香光代の女剣劇、デンすけ劇場 ロック座

花屋敷、お金もろくにないし、でも何もかもが珍しくあっという間に時間が経つ

夕方5時までに住み込みの親方の家に戻らないと大目玉を食らう

そんな田舎出の人たちが集った上野や浅草だ

それが今や世界中の人種が次々と押し寄せる町に大変身

浅草寺界隈は日本人1人に外国人4人以上の割合だ

それでも気取りの無い、お上りさんの町の風情は東洋の団体客の増加で堅持されている

 

もう50年も前に浅草寺参拝したとき「おさげ姉妹」という歌手も来ていた、たしか新潟出身とかで

親近感が湧いて一緒に写真を撮った。

森繁久弥さんがバックアップしてくれているそうだ、それも半世紀前の話

当時はこまどり姉妹とかザ.ピーナツなんて双子が大ヒットしていたので、そんな流れだったのかも

しれない、似た様な顔が4人ずらっと並んだけど全員本当の姉妹だったのだろうか

そんなヒットも出なかったようだったが、今は70歳半ばくらいだろうか、懐かしい思い出

 

大東亜戦争戦争前には、まだ10代の父は義父と一緒にいるのが嫌で亀戸の家を抜け出ては

浅草象潟の叔母さん(義父の妹)のところにもぐずりこんでばかりいたようだ。

叔母さんたって義理の叔母さんなんだが、妙に気が合って大好きな叔母さんだったらしい

千住にも叔父さんが住んでいたが、義父の弟でやたら調子ばかりが良くてあまり好きになれなかった

叔母さんは義父や実母同様に東京大空襲で死んでしまったが、叔父さんはしぶとく生き残った

義父と叔父さんと叔母さんは関東大震災を日本橋で体験したがそれは無事に生き延びた

だが空襲は避けることができず、叔父さんだけがセーフってわけで、父が安否を気遣って千住を

訪ねたら「オイオイ」泣くばかりで(こりゃあ頼りにならない)と20歳の父は叔父さんを見くびったのだった

それでもこの広い東京で生き残った、たった二人の身内だったから助け合おうと気を許したら

親が残してくれた数百円(昭和20年では大金だった)の半分をまんまと巻き上げられた

それでも良心がとがめたのか「おい坊主!手元にこうして金もあることだから、義姉と兄貴の葬式を

やろうじゃねえか」とちょっと叔父さんになったのだった。

それで今のビューホテルの隣にある、日輪寺という時宗の寺で身内2人だけで葬儀を行った

だけど遺体も見つからず、遺骨が当然あるわけでないから墓もない

けれど義父には「**院******居士」、母には「**院******大姉」の戒名がついた

本来は義父の代々の墓がある浜松で執り行うべきだが、運悪くその寺もアメリカ軍の艦砲射撃で

破壊され住職が爆死したという話しだった。

だが頭がいっぱいいっぱいの父が気づいたなら、茨城の古河に母の生家の墓があったのだった

それに気づかぬばかりに古河の寺では、その家の唯一の息子である父と戦後20年以上も音信不通になり

寺では息子さんも(父の事)も空襲で死んでしまったのだと判断して墓を整理してしまい、父の祖母、祖父

祖祖母、叔父二人の遺骨は無縁仏として寺の共同墓地に移されてしまったのだった。

 

父が東京大空襲の翌日と3日後に、母と義父と叔母さんの安否を訪ねて亀戸から浅草まで歩き回って

いて、叔母さんの家から近い浅草寺にやってきた、浅草寺も五重塔も焼け落ちた、浅草神社だけが焼けなかった

浅草寺境内には黒焦げの遺体が材木置き場の様に山積みになっていたそうだ、そんな中に「ご本尊無事」の

張り紙を見た父はむなしい思いに駆られた、以来無神論者になったのだという。

我が父にとって、昭和20年以降の浅草は好きな場所ではなくなったのかもしれない。

父にとって生涯最大の悲惨な光景、浅草松屋デパートの防空壕内の惨状が目に焼き付いて未だに

離れないのだと言っていた。