おはようございます。ヒューマン・ギルドの岩井俊憲です。
「怨念」をキーワードにして、長州藩の長期戦略を組織の運営と関連づけて謎解きをするシリーズの第3回目です。
石高を1/4に減らされた長州藩は、幕末期には、破産状態で発足した36万9千石を300年足らずの間に実質100万石近くの石高(厳密には99万8千石)にします。この間の努力は、並大抵のものではなかったでしょう。
財務戦略としては、徹底的なケチケチで行き、華美を極端に廃し、接待の場をお城ではなく、毛利家御用達の御用商人菊屋家屋敷で行います。

(菊屋家屋敷)

(菊屋家の庭)
ふつう、大きな藩の城下町には、土産物屋がつきものです。ところが、萩には殿様に献上するような、これといった土産がありません。
財務戦略に続く第2の戦略は、情報戦略です。
交通の要衝地の瀬戸内海側ではなく、日本海側に追いやられた長州藩は、中央から情報が入らないため、奇想天外の発想をします。
長崎に着目し、その地で外国人、遊女などから国内情報・国際情報ともにしっかりと入手していたのです。
山口県広報広聴課発行の「元気になるメールマガジン!! 山口きらめーる」 2007年1月26日Vol.110 の「萩のガラス」の第2回目「科学者・中嶋治平」には、次の記述があります。
19世紀半ばになりますが、こんなレベルにまで先端的な情報リテラシーを確立していたのか驚かされます。
萩にガラス製造技術をもたらした中嶋治平(なかしま じへい、1823―1866年)は、西洋科学を熱心に研究した多才な科学者でした。
幕末期、治平は、アメリカやヨーロッパの軍艦が開国を求めて来航すると、英語やオランダ語を習得する必要性を痛感します。
1856(安政3)年に、藩に願い出て3年間ほど長崎に遊学した治平は、語学だけでなく、オランダの軍医ポンペなどに師事して化学を究め、パンの製造、活版印刷、そしてガラス製造など、さまざまな知識を習得しました。
1860(万延元)年、2度目に長崎を訪れたとき、治平は当時の最新技術であった蒸気機械を購入します。そして、これを切子ガラス製造に用い、人力を省きより繊細な模様を彫り込みました。
また、このとき一緒に購入したものに小型模型蒸気機関車があり、同年、藩主に献上し、翌年萩城内の馬場で走らせたという記録が残っています。
次回は、マーケティング戦略と人材育成戦略をテーマにします。
<お目休めコーナー> 木蓮
