おはようございます。ヒューマン・ギルドの岩井俊憲です。
「怨念」をキーワードにして、長州藩の長期戦略を組織の運営と関連づけて謎解きをするシリーズの第5回目です。
まずは、萩の地図をご覧ください。

左上が指月城の跡地です。この上が日本海です。
「萩市」と書かれた文字の萩の上に「明倫館跡」があります。
ちなみに、右側には、松下村塾があります。
明倫館というのは、長州藩の藩校です。藩校が市の中心にあるのは、それだけ長州藩が教育に力を入れていた証です。
何事も「そうせい」と合点し、「そうせい候」とあだ名がつけられていた歴代の藩主たちには、後世から見ると、1つの大きな資質があったのです。
人材好き
であったことです。
村田清風を家老に抜擢したのもそうですし、中嶋治平を長崎に遊学させ、西洋の科学を学ばせたのもそうですし、幕末期に吉田松陰たちにさまざまな機会を与えたのも、家老たちの献策に対して「そうせい」と応えたからでしょう。
前回述べた村田清風による改革が長州藩の教育レベルをさらに高めました。
村田清風は教育普及においても力を注ぎ、庶民層に対しても教育を薦め、1849年(嘉永2年)には明倫館の拡大も行っています。
つまり、公教育の裾野を広げたのです。
長州藩の公教育の裾野を広げたのが村田清風だとしたら、長州藩で幕末期に私教育を充実させたのが吉田松陰です。
なお、松陰のことは、以前の2つの記事をご参照ください。
2009年02月03日 吉田松陰の里を走る(1)
2009年02月14日 吉田松陰の里を走る(2)
話を第1回目に戻して、司馬 遼太郎が対談集『歴史を考える』で語ったことを再度確認しましょう。
この間まで百石の者が2石ほどになってしまうし、30石だった者は無禄でしょう。だから、どこか山野を開墾して、何とか食っていかなきゃならない。そういう家族あげての生活の痛みが恨みになっていくわけですけれども(以下略)。
また同じく司馬 遼太郎の『歴史を紀行する』を引用すると、
上級武士でも10石や15石という者がふんだんに出来、それらは士籍を持ちつつ山野を耕して自給した。農民になってしまった者も数知れずいる。
はるかな後世、高杉晋作が討幕戦のために藩に過激政権をつくろうとしクーデター戦を起こしたとき、吉敷郡から農民1,200人が現れて高杉の陣営に投じた。
彼らは、徳川以前には毛利家家臣であったと称する者どもであり、徳川によって一家は窮境に落ちた、という家系伝説を持つ者たちであった。
高杉晋作が率いる騎兵隊に加わった人たちは、藩主藩の幹部と同様「怨み」をもとにし、その意識レベルが極めて高かったのです。
5回の連載分をまとめます。
長州藩は、関ヶ原以降の徳川幕府への「怨念」をもとに財務戦略、情報戦略、マーケティング戦略、人材育成戦略の長期戦略を融合し、藩という組織のエネルギーを高め、日本の近代化に大いに影響力を発揮したのです。
5回にわたりおつき合い、ありがとうございました。
何かの参考になれば幸せです。
<お目休めコーナー> 桜便り②―中野区の小学校で
