おはようございます。ヒューマン・ギルドの岩井俊憲です。
「怨念」をキーワードにして、長州藩の長期戦略を組織の運営と関連づけて謎解きのようにシリーズで書いていきます。
さて、毛利家の歴史に触れてみましょう。
毛利元就の時代に安芸・広島の8カ国、120.5万石まで領地を増やした毛利家は、「天下分け目の戦い」と言われた関ヶ原の合戦で元就の孫の毛利輝元が、西軍の総大将に祭り上げられたことで、領地が取り上げられかけ、旧領のうち、防長(周防・長門)2ヶ国36万石が毛利家の分家である吉川広家(関ヶ原の合戦で東軍の家康側に内通)に与えられることになります。
自分の恩賞よりも本家の取り潰しを恐れた広家は、この申し出を辞退し、周防・長門両国を毛利本家の領土とすることを願い出ます。このことによってすんでのところで長州藩は、取り潰しを免れたのですが、徳川幕府に対して怨念が残りました。
徳川幕府は毛利氏を危険視し、首都を瀬戸内海岸側に作らせず、交通の不便な日本海側の萩に追いやりました。
当時の萩は、あしやよしの生えた低湿地に過ぎず、ここに土を盛り上げて指月城(しづきじょう)を築き、田を埋めて市街を作りました。
(萩の城下町)
司馬遼太郎の『歴史を紀行する』(文春文庫)によれば、
持ち高を4分の1に減らされた毛利家は、家臣の人員を大量に整理しなければならなかったが、多くの者は無禄でも殿様についていくと泣き叫び、ついに収拾がつかなくなり、人がいいばかりの当時の当主 毛利輝元は幕府に泣訴し、
「とてもこの石高ではやってゆけませんから、城地もろとも放り出したい」
と言ったほどでした。
『歴史を紀行する』で司馬遼太郎は、別のページに次のように書いています。
徳川期の毛利家が破産状態で発足したことは、その後の日本史を知る上できわめて重要であると言っていい。
私の書きたかったことは、関ヶ原の合戦後の長州藩は、破産状態でリストラを余儀なくせざるを得なかった、という点です。
幕府の側からすれば、これは、歴史の皮肉ともいうべきことでしょうが、吉川広家の申し出を受け入れて、毛利家を存続させてしまったことで幕末期に死命を制せられてしまったのです。
以上を出発点とし、長州藩が幕末期までの長期戦略をどう展開したか、というところは、今後のお楽しみに。
組織運営に関してかなり参考になるヒントがあります。