おはようございます。ヒューマン・ギルドの岩井俊憲です。
「怨念」をキーワードにして、長州藩の長期戦略を組織の運営と関連づけて謎解きをするシリーズの第4回目です。
前回は、長州藩の財務戦略と情報戦略を扱いました。
今回は、マーケティング戦略と人材育成戦略の予定でしたが、マーケティング戦略だけにします。これに村田清風による改革を加えます。
石高を1/4に減らされた長州藩が、幕末期には、破産状態で発足した36万9千石を300年足らずの間に実質100万石近くの石高(厳密には99万8千石)にさせた謎は、何だったのでしょうか?
『歴史を紀行する』で司馬遼太郎は、次のように書いています。
長州藩は、米穀中心の幕藩経済が行き詰まりきった天保のころから藩経済の主軸を大きく産業に向かってねじまげた。
産業といっても当初は」農業生産品が主だが、それでも、「長州の三白」といわれた蝋・塩・紙(いずれも専売品)の利益は大きく、長州藩の実力はこれによって大きく飛躍したといえる。
その現金収入よりも大きな利益は、長州武士をして「商品経済」の味を覚えさせたことであろう。
長州藩は、米穀に頼っている東日本の諸藩をしりめに産業国家を目指すとともに、流通に目覚め。長州の商港である下関を内国貿易の中心地たらしめようとし、多分に成功した。
ところで、今まで述べたような戦略は、誰によって立案・遂行されたのでしょうか? 英明な藩主でしょうか?
どうもそうではないらしいようです。
藩主には独特のニックネームがありました。
そうせい候
です。
人材好きにの割りにさほど定見を持たず、何事も「そうせい」と合点し、このあだ名がつけられていたのです。
家老たちがそんな藩主たちを支えたようです。
その代表例として、家老の村田清風(1783 - 1855)による改革をあげておきます。
1838年(天保9年)、藩政の実権を掌握した村田清風は、藩主・毛利敬親のもとで天保の改革に取り組みました。
敬親は政治的に暗愚で、先祖の毛利輝元同様「そうせい侯」と呼ばれていました。村田清風は、そんな藩主を支えて、思い切って藩政改革に手腕を振るうことができたのです。
慢性的な財政難だった長州藩は、天保の時代に村田清風が、藩政全般の大改革を実行することによって、36万9千石が100万石近くになるまで成長したのです。
村田清風がどんな改革をしたか、その内容は、司馬遼太郎が『歴史を紀行する』で上のように書いているとおりです。
前回、今回で言えることは、長州藩は、関ヶ原の合戦後、怨念を蓄えつつも19世紀半ばまで慢性的な財政難を抱えていました。
それが一気に経済力、技術力を高めたのは、社長に相当する藩主の力によってではなく、村田清風という、会社でいえば副社長のような家老が進める藩の改革によって実現したのです。
長州藩のこの力が幕末期に日本の大改革につながってくるのです。
次回は、人材育成戦略です。お楽しみに。
<お目休めコーナー> 正見寺(中野区)の親鸞聖人像
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