見もの・読みもの日記

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中国旅行拾遺(5):乾隆帝陵の地下宮殿

2006-09-12 08:57:44 | ■中国・台湾旅行
○清東陵(河北省遵化県)、清西陵(河北省易県)

 清の皇帝陵は、北京市の東西に分かれて営まれている。ひとつ前の王朝、明の十三陵が、早くから観光コースとして定着したのに比べると、清の東陵・西陵が注目され始めたのは、最近のことではないかと思う。私は、中国のテレビ時代劇などを通して、清朝に親しみを感じ出した頃から、行ってみたくて仕方なかった。次に北京に行くときは、ぜひコースに入れてほしいと、団長格の友人に頼み込んでいた。

 今年、ようやく念願かなって、東西の陵墓群を訪ねることができた。東陵のほうが古く、順治、康煕、乾隆、咸豊、同治の5人の皇帝陵があり、咸豊帝の皇后、西太后(慈禧太后)の陵墓もある。よくも悪くも、清朝「主流」の風格が感じられる。一方、西陵に墓を持つのは、雍正、嘉慶、道光、光緒、そして、ラスト・エンペラー宣統帝溥儀。なんとなく華やかな先代の陰に隠れたり、貧乏籤を引いた人々の感が否めない。

 8月30日(水)に東陵、9月1日(金)に西陵を訪ねた。観光客の数は、やはり東陵のほうが多かったが、しかし、観光地としての整備の度合いは、どちらも「まだまだ」という感じだった。批難をしているのではない。たとえば北京の紫禁城のような、修復・復元が進んでいないので、むしろ「遺跡らしさ」が濃厚である。過ぎし栄光の日々に思いを致すには、今の状態のほうが味わい深い。日本人特有の感傷なのかも知れないけど。

 東陵の裕陵(高宗=乾隆帝の陵)では、地下の墓室に入った。青白い大理石を組み上げた、堅牢で広壮な空間が広がる。最奥部の、棺が置かれた部屋に到達するまでに、4つの門をくぐらなければならない。今は開け放たれたそれらの門は、やはり、ぶ厚い大理石で造られている。滑らかな表面(内側)には、優美な菩薩の姿が刻まれている。

 扉だけではない。壁にも、天井にも、びっしりと華麗な浮き彫りが施されている。居庸関の浮き彫りに似た厳粛な四天王像、愛らしい獅子像、仏像、仏塔、仏具など。具象的な図像の間を埋めつくす唐草モチーフは、乾隆帝にふさわしく、どこかヨーロッパ風でもある。

 清の陵墓群では、このほか、西太后陵と光緒帝陵の地下宮殿も公開されている。また、明の十三陵にも同様の陵墓がある。しかし、いずれも、墓道の扉に浮き彫りが施されている程度で、こんなふうに装飾に埋めつくされた地下宮殿は初めて見た。さすが、清朝の(中世~現代中国の)絶頂期を体現した乾隆帝である。

 実は、墓室の入口には「撮影禁止」の札がかかっていたのだが、私は気づかずにカメラのシャッターを押し続けてしまった。しかし、最後まで制止はされなかった(このへんが、まだ観光地として整備されていないところ)。

 ようやく興奮が落ち着いて、気づいたことがある。墓室の壁面には、びっしりと文字らしきものが見える。ガイドさんが、チベット語の経文だと説明したように思うのだが、自信がない。しかし、いくら見渡しても、目立つところに「漢字」は一文字も刻まれていないのだ。

 ふーむ。これをどう考えればいいのだろう。清は漢民族ではなく、満州人の王朝である。とはいえ、我々は(日本人は)、通常、乾隆帝を中華世界=漢字と儒教文化圏の皇帝だと思っている。しかし、彼は、墓室に一文字の漢字も持ち込まなかった(たぶん)。チベット文字の経文に荘厳されて眠りにつくことを欲した。

 結局、「漢字と儒教文化圏の皇帝」という役割は、満州人の乾隆帝にとって、生前の「コスプレ」に過ぎなかったのかなあ、などと考えてみた。しかし、清朝とチベット仏教の問題は、なかなか単純ではないようである。とりあえず、この本でも読んでみるか。

※参考までに、こんなものも御座います。

■清朝建築図様デジタルアーカイヴ(東京大学東洋文化研究所)
http://kande0.ioc.u-tokyo.ac.jp/ap/chinese-archi/index.html
コメント
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