見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

プロからアマチュアまで/紀伊国屋書店

2006-09-15 22:04:15 | 街の本屋さん
○紀伊国屋書店・新宿南店

http://www.kinokuniya.co.jp/

 しばらく海外に出ていると、留守の間に大きな事件が起こっていないかどうか、気になる。それと同様、私は、何か掘り出し物の新刊が出ていないかも気になる。

 中国旅行から帰ってきた翌日には、まず、新宿ルミネ5階のBook 1st(ブック・ファースト)をのぞいた。ざっと新刊書の棚を眺めて、めぼしい収穫がないことを確認する。ここは足の便がいいので、仕事帰りや買い物途中に、よく利用するが、品揃えには、あまり満足していない。そこで、先週末は、新宿南口のサザンテラスにある紀伊国屋書店(新宿南店)に出かけた。

 紀伊国屋とは、つきあいが長い。悪くない書店だと思う。取り立てて「ここが好き」というポイントもないが、嫌味がない。読書のプロからアマチュアまで満足させる、懐の広い書店である。

 新宿南店は、売り場面積の広さもさることながら、平積みの棚が広いので、新刊チェックには最適である。よそでは平積みの選から漏れる、もしくはすぐに撤退させられそうなタイトルが、堂々と平積みされているのが嬉しい。いつぞや『日本主義的教養の時代』(柏書房 2006)をすばやく発見したのも、ここだった。

 新宿東口の本店は、古い店舗のせいか、ちょっとゴミゴミしていて、どこに何があるのか、分かりにくい。もっとも、その「分かりにくさ」が、リピーターには「私には分かる」満足感を与えてくれるのだ。初心者には少し敷居が高いかもしれないが、老舗の書店らしい雰囲気を失わないでほしいと思う。

 むかし読んだ佐野眞一さんの『だれが「本」を殺すのか 』(プレジデント社 2001)に、紀伊国屋書店の会長・松原治氏のロング・インタビューが載っていた。「本が売れない」時代を迎えて、出版流通関係者のほとんどが悲観的な話しかしない中で、松原氏だけが、際立って自信にあふれていたのが印象的だった。ふーん。この人って満鉄調査部出身で、帰還兵なのか。詳しい自伝も、いつか読んでみたい。

 紀伊国屋書店のサイトで見つけた、下記のイベントも注目。

■第49回新宿セミナー:松岡正剛『千夜千冊』刊行記念トークライブ
http://www.kinokuniya.co.jp/01f/event/shinjukuseminar.htm#seminar_49
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風神雷神礼賛/出光美術館

2006-09-14 08:45:49 | 行ったもの(美術館・見仏)
○出光美術館『国宝 風神雷神図屏風-宗達・光琳・抱一 琳派芸術の継承と創造-』

http://www.idemitsu.co.jp/museum/honkan/index.html

 琳派を代表する3人の絵師、宗達・光琳・抱一が描いた『風神雷神図屏風』を一堂に集めて比較してみようという展覧会である。宗達作品は、ついこの間、京博の『開館110年記念展』で見てきた。光琳のは、今年のGWに見た。抱一も、ずいぶん昔になるが、一度は見た記憶がある。

 会場に入って、おやおやと思った。広いホールはパーテーションで仕切られ、観客は、宗達→光琳→抱一の順に誘導される。各作品の間には、解説パネルが設けられ、適度な距離と時間を空けるよう、工夫されている。見比べると言っても、3作品を並べて、ためつすがめつするような下世話な真似は許されないのだった。

 とはいえ、ちょっと遠くはなるが、少なくとも2作品ずつ(宗達と光琳、光琳と抱一)、一度に視界に収めることのできるビューポイントがある。せっかくの機会なので、この立ち位置を見つけて、じっくり見比べてみてはどうかと思う。

 私の好みは絶対に宗達である。今回の展示解説で、光琳は、宗達の輪郭線を、ほとんどそのまま写しているということを知った。にもかかわらず、絵の印象が違うのは、画面に対する雷神の配置を少し下げていること、それから黒雲の書き込みが多い(濃い)ことによると思う。

 元来の姿は分からないが、現状の宗達作品では、雷神にまとわりつく雲が少ない。なので、力の漲った全身が、一点の隈もなく、見る者の目に飛び込んでくる。虚空を踏みつける左足の指の反り具合がいい。風神が、前に踏み出そうとしている右足も同じ。ところが、光琳作品では、この大事な足先が黒雲に塗り隠されているのだ。私は、どうもそこが気に入らない。

 まあ、風神雷神の「むくむく」した造型に表われた生命力は、やっぱり、宗達のものだ。光琳の魅力は、もうちょっと幾何的な造型にあると思う。抱一は、光琳作品を手本にしたらしいが、かなり自由に写していて、抱一らしい、洒脱で品のある仕上がりになっている。

 3作品のほかにも、「梅」「秋草」「燕子花」などのモチーフで集めた琳派小特集が見られる。金地屏風の『紅白梅図』は前にも一度、見たかなあ。あんまりモダンで、現代人の名前が添えられていても全く違和感がないように思う。個人的には、光琳の『菅公と松梅図(草稿)』が気に入ってしまった。盆栽みたいな松と梅の上空に浮いた菅公が、かわいい~。
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願望と現実/還暦以後(松浦玲)

2006-09-13 09:06:31 | 読んだもの(書籍)
○松浦玲『還暦以後』(ちくま文庫)筑摩書房 2006.6

 「還暦以後」をキーワードに、歴史上の有名人の晩年を描いた人物エッセイ。著者自身も60代の半ばを過ぎ、老人の「記憶力」や「体力」を実感しながら書いているのがミソである。人物の多くは、著者の専門フィールドである、幕末~明治から選ばれている。日本人に混じって、朝鮮の大院君、清の西太后、李鴻章が取り上げられているのも興味深い。

 「還暦以後」も、自他ともに認める現役で通した人物は少ない。私の好きな李鴻章は、その稀少例である。労多くして報われず、「売国奴」の汚名まで着せられて、損な晩年だったように思うけれど、豺狼のような列強諸国と、最晩年まで渉り合った強靭な精神力を、私はカッコいいと思う。若いうちに華々しい功績を上げるよりも、老いてなお大役に堪える生き方が、最近の私の好みである。

 勝海舟は、若いうちに大仕事をして、その遺産で後半生を生きた人物の典型である(丸谷才一さんにそんな人物評があった)。海舟は李鴻章と同年で、明治32年(1899)まで生きた。明治10年代は完全に在野の人であったが、明治20年代には伯爵・枢密顧問官となり、日清戦争に反対する健白書を書き続けた。海舟には、李鴻章とアジア百年の計を語る用意があったと思われる。しかし、明治政府は海舟の建策を取り上げなかった。かつて海舟の伝記を編纂した著者は、60代になって資料を読み直し、「海舟は本気だったのだな」と気づき、30代の頃の自分が「年寄りに冷たかった」と反省する。

 違った意味で還暦以後も「現役」だった人々の逸話もあげておこう。依田学海は、30以上も年の離れた妾に子を為し、妻とも円満な晩年を送った。松崎慊堂は58歳で最初の妻を離婚したのち、4人目の妾に66歳で男子を得た。まったく。こんなことやっているから、福沢諭吉に罵倒されるんだな、漢学先生は。

 71歳の谷崎潤一郎が書いた小説『鍵』で、「壮烈な腹上死」を遂げる主人公は56歳。この設定には、「あの(年齢の)あたりで、こうしたかった」という谷崎の妄想(と回想)が託されているのではないか、と著者は読む。そうなのか? 一方、77歳で書いた『風癲老人日記』の主人公は、もう実際の行為はできないけれど、息子の妻に欲望を刺激されて愉悦を感じる老人で、谷崎本人と年齢が一致している。

 本書は、女性の「還暦以後」を、ほとんど取り上げていない。しかし、伊藤整の小説『変容』は、「六十になる男」が、還暦を過ぎた女性の(肉体的な)魅力に目覚める物語である。50代の前半で、伊藤整に疑問符を投げかけた中村真一郎は、自らの60代、70代を通じて、過激に老年の性を描き続けた。老人男性だけではなく、老女もまた、積極的に愛の行為に挑む。

 老年の性愛って、20代、30代から見たら化け物だろうなあ。40代の私から見ても、ちょっと退く。しかし、ともかく「人生には生き通してみなければ分からないことが多い」(本書)。実際に現役であり続けられる人間は、この場合も稀少例ではないかと思うけれど、願望においては、いつか私も「年寄りに冷たかった」と反省するときが来るのだろうか。
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中国旅行拾遺(5):乾隆帝陵の地下宮殿

2006-09-12 08:57:44 | ■中国・台湾旅行
○清東陵(河北省遵化県)、清西陵(河北省易県)

 清の皇帝陵は、北京市の東西に分かれて営まれている。ひとつ前の王朝、明の十三陵が、早くから観光コースとして定着したのに比べると、清の東陵・西陵が注目され始めたのは、最近のことではないかと思う。私は、中国のテレビ時代劇などを通して、清朝に親しみを感じ出した頃から、行ってみたくて仕方なかった。次に北京に行くときは、ぜひコースに入れてほしいと、団長格の友人に頼み込んでいた。

 今年、ようやく念願かなって、東西の陵墓群を訪ねることができた。東陵のほうが古く、順治、康煕、乾隆、咸豊、同治の5人の皇帝陵があり、咸豊帝の皇后、西太后(慈禧太后)の陵墓もある。よくも悪くも、清朝「主流」の風格が感じられる。一方、西陵に墓を持つのは、雍正、嘉慶、道光、光緒、そして、ラスト・エンペラー宣統帝溥儀。なんとなく華やかな先代の陰に隠れたり、貧乏籤を引いた人々の感が否めない。

 8月30日(水)に東陵、9月1日(金)に西陵を訪ねた。観光客の数は、やはり東陵のほうが多かったが、しかし、観光地としての整備の度合いは、どちらも「まだまだ」という感じだった。批難をしているのではない。たとえば北京の紫禁城のような、修復・復元が進んでいないので、むしろ「遺跡らしさ」が濃厚である。過ぎし栄光の日々に思いを致すには、今の状態のほうが味わい深い。日本人特有の感傷なのかも知れないけど。

 東陵の裕陵(高宗=乾隆帝の陵)では、地下の墓室に入った。青白い大理石を組み上げた、堅牢で広壮な空間が広がる。最奥部の、棺が置かれた部屋に到達するまでに、4つの門をくぐらなければならない。今は開け放たれたそれらの門は、やはり、ぶ厚い大理石で造られている。滑らかな表面(内側)には、優美な菩薩の姿が刻まれている。

 扉だけではない。壁にも、天井にも、びっしりと華麗な浮き彫りが施されている。居庸関の浮き彫りに似た厳粛な四天王像、愛らしい獅子像、仏像、仏塔、仏具など。具象的な図像の間を埋めつくす唐草モチーフは、乾隆帝にふさわしく、どこかヨーロッパ風でもある。

 清の陵墓群では、このほか、西太后陵と光緒帝陵の地下宮殿も公開されている。また、明の十三陵にも同様の陵墓がある。しかし、いずれも、墓道の扉に浮き彫りが施されている程度で、こんなふうに装飾に埋めつくされた地下宮殿は初めて見た。さすが、清朝の(中世~現代中国の)絶頂期を体現した乾隆帝である。

 実は、墓室の入口には「撮影禁止」の札がかかっていたのだが、私は気づかずにカメラのシャッターを押し続けてしまった。しかし、最後まで制止はされなかった(このへんが、まだ観光地として整備されていないところ)。

 ようやく興奮が落ち着いて、気づいたことがある。墓室の壁面には、びっしりと文字らしきものが見える。ガイドさんが、チベット語の経文だと説明したように思うのだが、自信がない。しかし、いくら見渡しても、目立つところに「漢字」は一文字も刻まれていないのだ。

 ふーむ。これをどう考えればいいのだろう。清は漢民族ではなく、満州人の王朝である。とはいえ、我々は(日本人は)、通常、乾隆帝を中華世界=漢字と儒教文化圏の皇帝だと思っている。しかし、彼は、墓室に一文字の漢字も持ち込まなかった(たぶん)。チベット文字の経文に荘厳されて眠りにつくことを欲した。

 結局、「漢字と儒教文化圏の皇帝」という役割は、満州人の乾隆帝にとって、生前の「コスプレ」に過ぎなかったのかなあ、などと考えてみた。しかし、清朝とチベット仏教の問題は、なかなか単純ではないようである。とりあえず、この本でも読んでみるか。

※参考までに、こんなものも御座います。

■清朝建築図様デジタルアーカイヴ(東京大学東洋文化研究所)
http://kande0.ioc.u-tokyo.ac.jp/ap/chinese-archi/index.html
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秋の特集陳列から/東京国立博物館

2006-09-11 23:56:49 | 行ったもの(美術館・見仏)
○東京国立博物館

http://www.tnm.jp/

 まだ夏休みの余韻が抜けないが、カレンダーは既に9月。各地で秋の優品展が始まっている。ということで、まず、上野の国立博物館から。

■特集陳列:佐竹本三十六歌仙絵(本館特別1室)

 だいぶ前に、この特集陳列の予告を発見したとき、おお!佐竹本三十六歌仙絵が東博に勢揃いか?!と早合点してしまった。なかなか、そうは行かない。出陳されるのは、「住吉明神」(ただし神像ではなく、風景画)「小野小町」「壬生忠峯」「藤原興風」(9/20~)の4点である。しかし「小野小町」は、この1点だけでも見に行く価値のある優品。三十六歌仙には女性が5人いるが、佐竹本では、小野小町だけは後ろ姿にして顔を描かない。かすかに見えそうな横顔を前髪で隠して見せないところが絶妙で、ニクイ。

■国宝:一遍上人伝絵巻 巻第七(国宝室)

 『一遍上人伝絵巻(一遍聖絵)』全12巻は、6年がかりの保存修復作業が終わったあと、2002年に京都国立博物館と奈良国立博物館で全巻展示が行われた。このとき感じたことだが、この絵巻は、たぶん複数の画家の手で作られており、しかも巻によって、出来栄えの差がいちじるしい。その中で、巻七は出色の巻である。小さなお堂で一心に念仏を修する一遍上人とその弟子たち(上人の厳しい表情が印象的)、物見高く集まった善男善女、念仏堂の床下で無心に遊び興じる子ども、そして、少し離れて一遍に付き従うような乞食や病人たち。のびのびと穏やかな山水描写の中に嵌め込まれた「人の世」の情景には、微熱のような、やるせない熱さと冷徹さが同居している。私は、この「世俗」に対する高い関心は、日本絵画の特質ではないかと思う。

※作品の詳細は「文化財オンライン」で。
http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=36748

■久隅守景筆『鷹狩図屏風』(本館7室)

 「屏風と襖絵」の本館7室では、8月に引き続き、酒井抱一筆『夏秋草図屏風』を公開中。出光美術館の『風神雷神図屏風』を見に行く前に、ぜひどうぞ。また、久隅守景筆『納涼図屏風』に代わって、同じ作者の『鷹狩図屏風』が出ている。これは初めて見る作品だが、何だか面白い。田園風景の中を、人々が駆けつまろびつして鷹狩をしている。狩られているのは、鶴のようだ。鶴ってデカいんだなあ。全体に不思議なユーモアが漂う作品である。

■特集陳列:博物図譜-写生とそのかたち-(本館16室)

 ごひいきの「日本の博物学シリーズ」。今回は、誰が見ても楽しめる博物図譜の特集である。きちんとした図譜を作る前に、さまざまな姿態を書き込んだスケッチ帖が見どころである。

■特集陳列:中国書画精華(東洋館第8室)

 東洋館の秋のお楽しみ。これまで、古い作品は前期、新しいものは後期だったと思うのだが、今年は制作年代で分けていないようだ。そのため、後期(10月)のほうが、有名作品が多いかも知れない。前期(9月)は小品が多い。おなじみ『瀟湘臥遊図巻』は、清の乾隆帝の愛蔵品で、冒頭に御筆が書き付けられている。均整の取れた美しい文字である。今夏の旅行で訪ねた、乾隆帝の御陵の情景と合わせ、いろいろ感慨深かった。
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中国旅行拾遺(4):天津博物館

2006-09-10 09:32:41 | ■中国・台湾旅行
○天津博物館

http://www.tjbwg.com/index.htm

 天津は、初め予定に入っていなかったのだが、気がついたら1泊することになっていた。しかし、実質的な滞在時間は半日である。にもかかわらず、行きたいところを、たくさん注文してしまったので、ガイドさんは、時間配分に苦慮していた。

 天津博物館は、2004年に竣工した新しい博物館である。その建物を目の前にして、私は「あっ」と思い出した。新建築社の雑誌『JA(ジェイエー)』が「中国に建つ日本人建築家の作品」を特集したとき、この作品を見たことがあると。帰国後、調べてみたら、やはりそうで、川口衛構造設計事務所と高松伸建築設計事務所の仕事である。日本建築家協会の高松伸さんのページでも、彼の代表作に挙げられている。首を水平に伸ばした白鳥の姿をイメージさせる建築で、すばらしく美しい。展示品は20万点に及び、一般的な書画・骨董のほか、近代史をテーマにした展示室「中華百年看天津」もあるという。

 この超級博物館の見学に許された時間は30分。とりあえず、私は3階の近代史展示室に入った。長い歴史を誇りたがる中国の博物館にあって、近代に焦点を合わせた展示室というのは、珍しい。天津という都市ならでは、の感がある。どうしたって、共産党の宣伝色は抜け切れないが、しかし、「租界」や「日本軍国主義」の時代に対する見方は、なかなか冷静で中立的である。非常に興味深かった。

 続いて2階の「精品庁」に飛び込み、呆然とした。名品が目白押しなのだ。いや、中国の博物館のコレクションは、どこもすごい。しかし、展示施設のほうに問題があって(保存管理、防犯など)、なかなか名品を外に出せない。ところが、この天津博物館は、たとえば、見学者が通ると明るくなる照明などの最新設備が整っている。その結果、中国のほかの博物館では、めったに見ることのできない書画の名品が、目を疑うほど、オモテに出ている。ここは台湾故宮博物院か?と錯覚してしまうほどだ。

 駆け足で覗いてまわった展示ケースのひとつに見覚えのある作品があって、思わず、足が止まった。紺地に金泥、彩色を加え、農村を舞台に繰り広げられる祭礼の様子を描いた不思議な図巻である(万笏朝天図巻)。2003年に千葉市美術館で行われた『天津市芸術博物館展』で見た。今もネット上に残っている展覧会のポスターは、この作品をアレンジしたものである。

 天津は、戯劇博物館も、やはり駆け足になってしまった。一般の観光客ならあれで十分だろうけど、私は、もっとゆっくり展示を見たかった。加藤徹さんの著書『京劇』や、早大演劇博物館の『京劇資料展』(2005年)で覚えた名優たちの写真もあったのに。

 このほか、天津には、義和団紀念館や梁啓超紀念館などの博物館もあるらしい。次回は、もう少しゆっくりと。東アジア近代史に肩入れ気味の私としては、李鴻章や袁世凱ゆかりの地も、往事を偲んでまわってみたいな。
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中国旅行拾遺(3):陝西省歴史博物館・唐墓壁画庫(承前)

2006-09-09 12:52:05 | ■中国・台湾旅行
○陝西省歴史博物館・唐壁画庫(承前)

 1時間以上にわたった唐墓壁画庫の見学ツアーも終了。まだ一般展示エリアを見ていてもいいというので、特別展を見に行く友人と別れ、私はミュージアムショップで唐墓壁画の図録を買い求め、いま見た壁画を確かめようと試みる。しかし、既に記憶は混乱気味。本格的に唐墓壁画を楽しもうという方は、さきに図録を買い求め、これを持参して壁画庫ツアーに臨むことをおすすめする。

 帰国後、友人と2人で記憶を付き合わせたところでは、見せてもらった壁画は計14枚。後年の覚えのために、図録から撮った写真を合わせて掲げておく。(下手なメモ代わりと思って、画質には目をつぶってください。※図録の著作権=公衆送信権の問題にも)

◎懿徳太子墓

(1)墓道東壁 闕楼図


(2)墓道西壁 闕楼図


(3)墓道西壁 儀仗出行図之一


(4)第二過洞東壁 架鷹馴鴫図
→追加で見たもの。鴫は別字。英訳 snipeに従って和字を当てる。


(5)第二過洞西壁 架鴫戯犬図
→追加で見たもの。日本で見た記憶あり。同上。


(6)第二天井西壁 列戟図
→説明なしで素通りしたが、部屋にあったと友人。


(7)前室西壁北舗 宮女図
→宮女図また仕女図(群像)は1枚だけだった。やや自信がないがこれか?


◎章懐太子墓

(8)墓道東壁 狩猟出行図之一
→これも日本で見た記憶あり。


(9)墓道東壁 狩猟出行図之二


(10)墓道東壁 狩猟出行図之四


(11)墓道西壁 馬毬図之一


(12)墓道東壁 客使図


(13)墓道東壁 儀衛図
→最後に別室で見たもの。


(14)前甬道 内侍、侍女図
→私も友人も、あと1作品が、どうしても思い出せず。「トリがいた」という友人の言に従って、これとする。侍女がニワトリを抱いている。


※参考:ツアー情報は以下のとおり。

■aiaiChina:いにしえの都西安 冬スペシャル  
http://www.china.co.jp/news/050825-01.html

■ツアーコンダクターのよもやま話: 長安の日本人
http://jalpak.air-nifty.com/tourconductor/2006/08/post_14fb.html

 陝西省歴史博物館は、この壁画庫ツアーで稼いだ資金で、より近代的で本格的な展示保存館を建てるつもりのようだ。同館のサイトを見ると、イタリアの協力で”正在設計建設中”の唐墓壁画館の完成予想図が上がっている。やりかたに賛否はあるだろうが、必要な資金(の何割か)は自分で稼ごうという、その意気やよし、と私は思う。

 ただし、いまの状態のほうが、生々しい鑑賞が可能である。考古美術ファンは、新しい展示館が建つ前に見に行くことをおすすめする。また、心無い観光客が、何か取り返しのつかない事件を起こさないことを切に望む。

■陝西省歴史博物館:唐墓壁画館(中国語)
http://www.sxhm.com/bhg.asp

■Asahi.com:日・伊シンポジウム「人類の文化遺産、国際協力で守る」
http://www.asahi.com/sympo/060329/05.html
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中国旅行拾遺(2):陝西省歴史博物館・唐墓壁画庫

2006-09-08 23:33:09 | ■中国・台湾旅行
○陝西省歴史博物館・唐墓壁画庫

 8月28日、西安の続き。陝西省考古研究所の見学を終えた我々は、陝西省歴史博物館の一般見学エリアで、午前中の2時間をつぶす。そして、昼食、小雁塔の見学後、3:00に再び陝西省歴史博物館に戻ってきた。

 いよいよ、壁画庫スペシャル・ツアーの始まりである。西安市の郊外には、章懐太子(しょうかいたいし)墓、懿徳太子(いとくたいし)墓、永泰公主(えいたいこうしゅ)墓など、華麗な壁画で知られる唐代の陵墓が集まっている。これらの壁画は、今は剥ぎ取られて、陝西省歴史博物館地下の保存庫に収蔵されているのだ。

 ミュージアムショップで待っていると、担当者が呼びにきた。一般見学者のコースを外れ、本館の裏にまわると、別棟の収蔵庫が建っている。ゆるやかなスロープを下り、物品搬入路を兼ねていると思しき、洞窟のような巨大な入口をくぐる。薄暗いガレージのようなスペースを抜けると、突然、やわらかな照明と、靴音のしない厚い絨毯(これも赤か?)にいろどられた、瀟洒な保存展示室に到達する。まるで魔法にかけられたようだ。

 部屋の大部分を占めて、図書館にある電動書架のようなものが並んでいる。ただし異様に背が高い。いや、これは書架ではなくて「画架」なのだ。既にいくつかの「画架」が引き出されており、そこには、見覚えのある、有名な壁画作品が飾られていた。ああ、本当に西安に来たのだ、と思って、息を呑む。空いている壁には、ヨーロッパの貴族の邸宅にあるような、豪奢なビロード(?)の緞帳で隠された絵画(もちろん壁画であろう)が立てかけられていた。既に室内には、何組かの見学者が入っていて(日本人が多い)、数名ずつ、案内人の解説を聞いていた。

 我々には、王さんという解説者が付いてくれた。日本の博物館や美術館で講演をしたこともあり、高松塚古墳の保存に関する協議にも参加していると言っていたから、上席の研究員ではないかと思う。

 驚くべきことか、我々の前に引き出された壁画は「丸裸」の状態である。ガラスが嵌まっていない。なるべく呼気がかからないよう、口もとを押さえながら、それでも近づけるだけ近づいて、ナマの唐代壁画を鑑賞させてもらう。

 展示室の右端と左端にあったのが、懿徳太子墓の「闕楼図」(東西2面)。高い台座の上に築かれた朱塗りの楼閣を描いたものだが、私の好きな『吉備大臣入唐絵巻』に描かれた楼閣に似ている。章懐太子墓の「狩猟出行図」のうち、3騎だけを描いた小さい画面は、江戸博の『新シルクロード展』でも見た。しかし、大集団を描いた大きいものは、もちろん初見である。先頭を行くのが、被葬者の章懐太子本人と思われる、ということだ。万葉集の安積皇子の挽歌(家持作)を連想した。

 何列目かの「画架」の裏にまわったとき、目に飛び込んできたのは「客使図」である。この有名な作品を、ナマで目の前にすることができるなんて...絶句。

 結局、全部で10余点の壁画を見せてもらった(解説なしで素通りしたものもある)。ここで、私はハタと困った。自分が何を見たのか、メモをとっておきたい。しかし、まさかこんな環境で見学できるとは思わなかったので、鉛筆を持ってきていないのだ。この状況でボールペンを取り出すような馬鹿な真似は、たとえ咎められなくても、できない。

 どうしよう、どうしよう、と困っていたら、通訳ガイドの李さんが「皆さん、特別にもう1枚見せてくれるそうですよ!」と嬉しそうに呼ぶ。この壁画庫見学ツアーは、所定の料金さえ払えば、誰でも参加できる。だから、日本の旅行社で、これをオプションに組み込むところは多い。

 その結果、美術にも歴史にも興味はないけれど、郊外ツアーは面倒くさいし、美食ツアーにも飽きたし、というような旅行者が、漫然と入ってくるケースが多いのではないかと思う。我々の直前にいた日本人男性2人も、あんまり無感動な様子なので、少し腹が立って、後ろから蹴りを入れたくなった。

 それに比べると、我々は、本気でこの壁画庫を楽しみにしていた客だということが伝わったのではないかと思う。研究員の王さんが、近くにいた女性に命じて、新たな電動架を1列、引き出させた。一体どんな画面が現れるのか、数秒間のわくわくした気持ちのあと、現れたのは、細身の犬が、男の腰にじゃれつく場面であった(架鴫戯犬図)。ああ、見覚えがある、と反射的に思った。

 この壁画は、以前、日本の展覧会に貸し出したことがある、と王さんは語った。そのとき、修復(洗浄?)をしたので、ほかに比べてきれいでしょう、という。うーん、これを見たのは、大阪市立美術館『大唐王朝-女性の美』だったかなあ。ちょと記憶が曖昧で、記録もない。おまけのおまけで、裏面の鷹匠の図(架鷹馴鴫図)も見せてもらう。

 よほど気をよくした王さんは、さらにもう1枚見せよう、と言って、我々を別室に連れて行く。入ってくるときは気づかなかったが、電動架の並んだ保存庫は”「”型に2室連なっているのだ。別室で、王さんは、我々を房付きの豪奢な緞帳のかかった絵画の前に立たせ、その緞帳を左右に払った。赤い頭巾の儀仗兵たちが並んでいる。見上げると首が疲れるほど大きい。あんまり大きいので、電動架に入らないのではないかと思う。

 王さんの話では、唐代壁画を扱った日本の美術全集の表紙にもなった作品だという。また、唐を舞台にした映画(LOVERS?)を撮った関係者がこれを見に来て、映画では黒い頭巾を使ったが、赤にすればよかった、と語った、というエピソードも教えてくれた。

※見学した壁画の詳細は9/9の記事参照。
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中国旅行拾遺(1):陝西省考古研究所

2006-09-07 00:33:09 | ■中国・台湾旅行
○陝西省考古研究所(西安)

 今夏の中国旅行は、西安6泊+天津1泊+北京3泊の11日間だった。メンバーは知った者どうしで、「中国は初めて」から10数回目のリピーターまで、総勢6人。スケジュールは、例によって「団長」役の友人が、オーダーメイドで手配してくれた。

 8月28日、西安。この日は、午前中に陝西省考古研究所を訪問、午後は3:00から陝西省歴史博物館の壁画保存庫を見学の予定である。ただの旅行者が、ホントにこんなところを見られるの!?と半信半疑だったが、「団長」の話では、パッケージツアーでも、ときどきオプションに組み入れられているらしい。

 約束の朝9:00、大雁塔に程近い裏通りにある、陝西省考古研究所に到着。現地ガイドの李さん(30代くらいの女性)も、滅多に来ない場所なので、ちょっと緊張気味である。やがて、李さんの会社の「社長」という男性が現れ、彼の紹介で、今日の案内役、研究員の段さんに引き合わせてもらう(→たぶん、この人)。あとで聞いた話では、社長と段さんは、学生時代の同級生なのだそうだ。

 案内されたのは、研究所の2階にある文物展示室。ガイドの李さんからは、「展示品は多くないので、がっかりすると思いますよ」と忠告されていた。なるほど、数は多くないが、大学なら「小会議室」か「中会議室」ほどの細長い部屋のガラスケースに、各時代を網羅する名品が、ぎっしり並んでいる。

 大きな文物は、無造作にガラスケースの外に放置されている。接近禁止を示す柵もラインもない。無作法な客人なら、手を伸ばして触れることもできてしまう。しかし、もちろん本物なのだ。ひとつは石の「こざね」を編み上げた鎧(石鎧甲)。兵馬俑もあったかも知れない。しかし、私の目を釘付けにしたのは、長い袖を広げ、頭を低くして、赤い絨毯(たぶん)の上に腹ばう文官俑である。「拝跪文官俑」だ!

 研究員の段さんが「これは日本の新シルクロード展に行きました」と説明してくれた。そうだ、そのとおり。私は今回の中国旅行で、「これは日本で見た」という記憶のあるものに、ずいぶん出会った。帰国後、自分のブログを検索して、記憶を確かめるのが楽しかった。便利だなあ。拝跪文官俑のこともちゃんと書いている。オレンジ色がかった明るい土の色も記憶どおり。

 陝西省考古研究所には、現在、江戸博物で開催中の特別展『始皇帝と彩色兵馬俑展』で、初めて本格的に日本に紹介された漢陽陵の文物(裸体俑、動物俑)も、多数、展示されていた。我々が旅行プランを練っていたときは、まだ漢陽陵の存在は分かっていなかったので、今回の訪問先からは落ちてしまった。段さんは、「漢陽陵には行かないのか。あそこは、いちばん行ってほしいのに」と残念がっていた。

 説明つきの展示室ツアーは1時間くらいで終わった。大満足である。それにしても、ほんとに一般ツアーでこんなところに入れるのか?と思ったら、ちゃんとあった。中国考古ファンには、自信をもっておすすめしたい。

■読売旅行:西安の宴(うたげ)4日間
http://www.yomiuri-ryokou.co.jp/kaigai/detail.asp?id=1196

※後日、団長から、「漢陽陵の存在は知っていたけれど、新しい博物館ができたことは知らなかったので外した」との訂正申し入れあり(9/8)。
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命の値段/貝と羊の中国人(加藤徹)

2006-09-05 23:58:02 | 読んだもの(書籍)
○加藤徹『貝と羊の中国人』(新潮選書) 新潮社 2006.6

 瞼の裏に焼きついた中国旅行の余韻を楽しみながら、本書を読んだ。加藤徹さんの著作を読むのは4冊目だが、バリバリの専門テーマに即して書かれた『京劇』(中公叢書 2002)や『西太后』(中公新書 2005)に比べると、本書は、一般読者にも分かる中国文明論を主眼としており、ちょっと薄味。日本人向けの中華料理みたいなもので、コテコテの中国迷には、やや物足りない読後感だった。

 題名の「貝」と「羊」は、中国文化の二面性を表している。即ち、殷王朝に起源を持つ、有形の物財を重んじ、現実主義的な気質と、周王朝に代表される、熱烈なイデオロギー性を言う。まあ、一度は聞いたような説で、特に新味はない。

 本書の面白味は、ところどころに挿入された、具体的なエピソードにある。実際に著者が見聞したものもあるし、本から拾ったものや、専門家ならではの知見もある。

 たとえば、形式と形而上的価値を重んじる「羊」文明の唱道者である孔子が、実は「貝」文明の祖先、殷人の末裔だったという話。原話は史記にあるのだそうだ。

 それから、中国人と日本人の縄張り感覚の違い。中国人は「無私物」の範囲が極端に広い。他人の家に侵入して物を盗むことは犯罪であるが、家の前に置かれている傘や自転車は、誰が持ち去ってもいい「無私物」と判断する。笑ってしまった。しかし、この習慣を領土問題に持ち出されては、苦笑で済まないわけだが。

 また、中国人は「泊まる」と「住む」を区別しないように、本質的に流浪する民である。生水を飲まず、ナマ物を食べないのは、何千年にもわたって彼らが身につけた「流浪のノウハウ」である。それゆえ、アメリカ大陸横断鉄道の過酷な工事現場でも、中国系労働者は生き抜くことができた。しかし、日本から渡った旧会津藩士たちは悲惨な運命をたどった。これ、少し眉唾だが、本当なら興味深い比較文化論だと思う。

 強く印象に残ったのは、清末の中国で宣教師が出会ったエピソード。ある女性患者が、病院の食事制限にうんざりして、「私は食べたいものを食べたい。死ななかったら、また病院に来ます。死ぬのが私の運命なら死にます」と語り、帰宅して4日後に死んだ。『奉天三十年』という本にあるそうだ。ああ、近代以前、人間の生死って、実にたわいないものだったんだなあ。

 いや、近代以降もである。毛沢東は、アメリカとの全面核戦争を予想し、数億の中国人が死ぬことを覚悟していた。それでも「中国」という国家を存続させるため、できるだけ人口を増やしておくことを望んだという。

 そんなふうに、命の値段の軽すぎる社会で、のし上がり、名を成した人々の物語だからこそ、中国の歴史は面白いのだろう。
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