戸山原古墳 3号墳
1号墳の脇、しかも現在のレベルよりも低く、現状では地下に所在している。1号墳発掘の時に天井石が検出された。複室構造で床面には石が敷き詰められている。墓道も長い。径15m程か。1号墳よりも以前に築造されていることが判るので6世紀中頃から後半にかけてが築造時期だろう。周囲には古墳の痕跡が多く当該地域が首長クラスの者の奥津城だったのだろう。その後北側崖に横穴墓が多数造られることになる。
当該ブログの記事は令和6年5月29日から6月8日までである。
戸山原古墳 周辺
戸山原古墳に通うときにその脇を通っていたので気にはなっていた。古墳であることの核心はあったのだが、川崎町の埋文担当者に確認したところ「古墳なのですが 発掘調査はしていません」と言う答えである。
現状は墓地として利用されているからそれも無理な話である。
まあしかし畑の所有者に断りを言って近くまで行って核心が確信になったということである。径10~15m程の円墳で横穴式石室を持っていたようだ。らしき石材が横たわっている。
当該ブログの記事は令和6年5月23日から27日までである。
戸山原古墳 公開 2015-10-17 (福岡県)
2010年から始まった古墳公開は、4月、10月の年に2回行われる。遠賀川流域古墳公開として 王塚古墳、竹原古墳、沖出古墳 等それらの仲間になった。ある会場から戸山原古墳の説明に来て欲しいと連絡の入ることもあった。また、戸山原古墳に行くとボランティアの方が説明しようとするのだが・・・必ず埋文担当者が「そちらの方には説明しなくていいですよ」と声がかかる。ボランティアの方はキョトンとする。周囲が忙しい時は我輩が説明する役に回る。
母は椅子に座ってニコニコして見ている。我輩唯一の理解者だからな。
当該ブログの記事は令和6年5月10日から21日までである。
戸山原古墳 公開 (福岡県)
戸山原古墳公開の記念すべき日は2010-10-16である。これは遠賀川流域古墳公開(王塚古墳 竹原古墳等)の仲間になったのである。秋日好天を絵にかいたような日となった。母子で参加した。1年9ヵ月足繫く通ったものだ。オープンテープカットに参加して頂きたい旨あったのだが生憎土砂降りで中止せざるを得なかったのである。
母曰く ほんと雨男やね と・・・ははは。そう言った母は7年前に他界した。我輩の唯一の理解者だった。
当該ブログの記事は令和6年4月26日から5月8日までである。
戸山原古墳 公開前 (福岡県)
何度通っただろう。毎週1度は必ず訪れたからな。それに完成して利用可能になると町長以下関係者によってテープカットを執り行うと言っていた。そこに関係者の一人として参加してもらいたい旨の申し出があった。喜んで参加すると言ったのだが・・・前日から土砂降りが続いて中止だと・・・我輩は雨男である。母も妻も子供達も教え子も言う。「先生、先生は日にちを決めないで下さい」「なんで」「先生が日にちを決めると雨が降るんですよ」「そんなことはないぞ」「いや駄目ですよ」・・・うーむ。
当該ブログの記事は令和6年4月10日から24日までである。
戸山原古墳 修復復元 (福岡県)
平成17年3月20日に発生した福岡西方沖地震によって石室内一部が崩落した。そこから4年間手を付けることがされなかった。まあいろいろあったと言う話は聞いてはいるが・・・。それから平成21年4月13日から測量等をきっかけにして全面修復に到るのである。フィールドワーク、所謂ハードな面は平成22年1月18日に終了し、ソフトの面を整理し終えたのが同年3月26日。この日をもって全ての作業が終了したのである。
当該ブログの記事は令和6年3月24日から4月8日までである。
勝山古墳群 1部
古墳の宝庫の地「みやこ町」 勝山神社 の周囲に点在する。小丘陵と言っていいかもしれんが、裾の、中腹などに点在している内の一部を探訪している。神社の周辺を整備している方に案内されて古墳を確認したものである。巨石を用いて玄室が造られ、天井はと言えば上に行くにしたがって穹窿状になっていることが判る。天井石が無くて落とし穴の様になっているのが気になるので注意を報せるようにして頂きたいと言っている。古墳の築造は恐らく6世紀後半から7世紀前半までに築造されたものと思われ当該地域の首長クラス、或はそれに近い者の古墳ではなかろうか。有力者には間違いあるまい。
勝山古墳群 1部位置 (危険なので残念ながら本来の位置を示すことは出来ない)
当該ブログの記事は令和6年3月16日から22日までである。
勝山古墳群 2号墳 (福岡県)
勝山神社 鳥居の右脇に入って行くと3基の大型の円墳が並ぶ。手前から 3号墳、2号墳の順である。3基の中で一番早く築造されたと言われている。6世紀の半ばと思われる。埋葬施設は3室の構造で珍しいのではなかろうか。また玄室の造りが素晴らしく持ち送りと穹窿状の天井の見事な石組を見ることが出来る。コンパクトではあるが素晴らしい。開口部が少し埋まってはいるが石室内に入るのは造作もない。開口部手前に墓道か羨道か、その両壁の石材が露出している。円墳の裾はだいぶ手前にあったようだな。当該地域の首長クラスの人間が埋葬されたのであろう。
当該ブログの記事は令和6年3月4日から11日までである。