樋の口古墳(佐賀県)
御覧の様に道端にある円墳ですぐ判る。石室内部には入ることは出来ないが覗いてみると奥壁は赤色顔料が塗られている。左右の壁は板石を積んでいるが、目と鼻の先にある玉鬘古墳の石室の造りとは全く異なっている。何を意味するのか・・・道路べただから無理に車を停めずに見学を。
当該ブログの記事は平成26年(2014)9月27日から10月10日までである。
樋の口古墳(佐賀県)
御覧の様に道端にある円墳ですぐ判る。石室内部には入ることは出来ないが覗いてみると奥壁は赤色顔料が塗られている。左右の壁は板石を積んでいるが、目と鼻の先にある玉鬘古墳の石室の造りとは全く異なっている。何を意味するのか・・・道路べただから無理に車を停めずに見学を。
当該ブログの記事は平成26年(2014)9月27日から10月10日までである。
玉蔓古墳(佐賀県)
道路べたに車を停めて(極力迷惑にならないように)山中に分け入っていかねばならない。やはりこれだろ古墳探訪は。これでなくちゃ面白くないぞ。案内看板はあってないような感じだから通り過ぎてしまうかもしれないぞ。竹林が続くがそれなりの道(道とは言えないが)が古墳まで誘ってくれるので迷うことなし。別に説明看板などないからな。
当該ブログの記事は平成26年(2014)10月11日から21日までである。
円山古墳(佐賀県)
円山古墳は石障系の初期横穴式石室を持つ。5世紀後半の築造であろう。大型の円墳の範疇で佐賀県内では最大級の様だ。小城から佐賀に向かうのだがこんもりとした小さな杜が左に見える。石室を持つとは書いてはあるが主体部は確認できない。埋め戻されているのだろうな。
当該ブログの記事は平成26年(2014)10月22日から27日までである。
船塚古墳周辺(培塚)(佐賀県)
リスティングは陪塚の中の一番北にある古墳にあてていることを断っておかねばなるまい。陪塚は高塚ではないのが残念で、全て主体部を見ない。宮崎で見られるような地下式横穴のような墳丘である。私有地にあるようなので足を踏み入れるなど到底できないが垣間見ることは出来るのでここにアップしておいたものである。
当該ブログの記事は平成26年(2014)11月12日から17日までである。
船塚古墳(佐賀県)
肥前地域にあって最大の前方後円墳(全長114m)で、楯形周溝を持つ。この周囲には陪塚が7基または6基あり、典型的な中期(5世紀前半〜中頃)築造の前方後円墳である。
当該ブログの記事は平成26年(2014)10月28日から11月11日までである。
久保泉丸山遺跡(佐賀県)
移築復元は後世の為であろうが、これらの姿を見て歴史を感じることの出来る人が何人現れるだろうか。我輩なんぞは戦時中の防空壕かトーチカかそれとも疎開した司令部かと見まがうほどであった。心あるならこの地に腰を下ろし根を張った古代人の息吹を感じ彼らの奥津城を再現してやるべきではなかったのか。情けない。山口市にある朝田墳墓群もこれに近い。反面教師としての文化財保護のやり方を見るには持って来いだ。
褒めているのではないからな。
当該ブログの記事は平成26年(2014)11月18日から12月11日までである。
関行丸古墳(佐賀県)
5世紀末か6六世紀初頭にかけて築造されたものと思われる。秀麗な姿を残す前方後円墳である。手の入った竹林があるので恐らくは個人の持ち物なのだろう。綺麗に保存してくれているようで有難い。
「独坐幽篁裏 弾琴復長嘯 深林人不知 名月来相照」
当該ブログの記事は平成26年(2014)12月12日から20日までである。
伊勢塚(佐賀県)
説明を読んでみた「墳丘及び横穴式石室とともに県内屈指の規模を持ち、壁画系装飾古墳として学術上価値が高い」のにも拘らず胴体を切断して道路を通しているのはどうゆう訳だ。こうなった理由をも書いておくべきだ。しかしながら見る価値は十分にある。県道31号を通過するときは「ちょっと待てよ そう言えば・・・寄ってみよう」
当該ブログの記事は平成26年(2014)12月21日から29日までである。
都紀女加王墓 別名上のびゅう塚古墳(佐賀県)
別名「上のびゅう塚」 宮内庁管理の陵墓である。当然立ち入ることなど出来ないし、説明看板などどこにもない。「古墳は前方後円墳で、前方部を西に向ける。墳丘長は49メートルで5世紀の築造と推定されるが、埋葬施設は明らかでない。墳丘表面からは埴輪・葺石が見つかっているほか、墳丘周囲に周溝が巡らされたことが明らかとなっている。昭和18年(1943)に宮内省(現・宮内庁)によって都紀女加王の墓に治定された」(ウィキペディアから抜粋)平々凡々な我輩はぼーっと見てるだけ。九州でも数少ない宮内庁管理の陵墓である。
当該ブログの記事は平成26年(2014)12月30日から平成27年(2015)1月1日までである。