画面右は鉄砲山古墳の前方部である 向うに見える前方後円墳は奥の山古墳である
前方部東側から見ている 手前の方形の盛土はなんだろう 何でもが古墳に見えるのはもう習い性だろうが・・・
方形周溝墓のようにも見えなくもなし・・・うーむ
画面右は鉄砲山古墳の前方部である 向うに見える前方後円墳は奥の山古墳である
前方部東側から見ている 手前の方形の盛土はなんだろう 何でもが古墳に見えるのはもう習い性だろうが・・・
方形周溝墓のようにも見えなくもなし・・・うーむ
全長 108m を測る やはり全体を収めることが出来ないな
画面左が前方部 後円部より少し高いのがお判りになると思う
後円部である 東側から見ている 何処かに横穴式石室の入り口があるのだろうが・・・
やはり前方部が少し高いのかな 画面左が前方部である 西側の括れ部には造出しが設けられている
稲荷山古墳築造の形式を引き継いでいる 埋葬者は乎獲居の系譜で 大和の大王に仕えたのだろうな
もうどの様な場所にあるのか暗記された方もおられよう
築造順には並んではいない 将軍山古墳がフライングしていると言ったところだな・・・うーむ
二子山古墳 (埼玉古墳群)
埼玉古墳群に所在し 全長 138m 「武蔵国」最大の前方後円墳である。中堤、周堀が巡っており、現状は盾形となっている。しかし、埼玉古墳群形成の最初に築造された稲荷山古墳の形式を引き継いでおり、方形で二重の周堀、中堤を持つものである。また、括れ部に近い場所に造出が設けられ、更に中堤から外に向かって大きな造出が別に設けられている。
残念ながら本格的な発掘が行われていないので埋葬施設、副葬品などが判っていない。6世紀初めの頃に築造されており、乎獲居の系譜なのか、それとも血族か、それは判らぬが大和政権との繋がりは強力で強大な者であったことは間違いなく権力の象徴としてこの古墳を築造させている。更に後継者が何代か続くのである。
当該ブログの記事は令和4年7月20日から29日までである。
前方部に廻っている
西側側面 造出しが設けられている側面だから これが本来の正面であろう やはり前方部が少し高い
これは百舌鳥古墳群でも見られる この時代以降この様に築造するのが隆盛だったのではないか
向うに将軍山古墳が見える 陽も傾き始めたな