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好きな本とかについて、ちょこちょこっと書く場所です。蔵書整理の見通しないまま、特にきっかけもなく08年12月ブログ開始。

とりあえず楽しく乗ることにする

2014-04-21 19:52:48 | 馬が好き
小雨模様だけど、乗馬に行く。
きょうは、楽しく乗ろうと思う。
先週も、そう思ってたのに、いざ乗ったら、失敗したからね。
むずかしいこと考えずに、馬が楽しく動いてくれれば、それでよし。っていうか、そっちのほうが大事、馬の楽しさ優先。

そんなこと考えながら、行ってみたら、なんと当たってた馬は、先週にひきつづき、ブルーノート。
おお、いいねえ。先週は、ムダにグリグリしちゃって、失礼した。きょうは楽しくやろう。
馬装したら、馬場へいって、さっそくウォーミングアップ。
あいかわらず、ズンズン、ズンズン、歩く気は満々。ちょっと躊躇したようにみえたときでも、ちょいと脚つかえば、ハイヨっとばかりに前に出る。
きょうの目標、動かそうというときに、手をガチャガチャしない。脚使うときは、カカトでグリグリしない。
そうそう、それと、いうこときいたら、すぐホメてやろう。ちょっとしたことでも、一回一回ホメよう。

そんなこと考えながら、ウォーミングアップしてると、「障害、飛びます?」と訊かれる。
虚を突かれて、「えっ?」と言ったきり絶句してしまった私。この馬、跳ぶのかなあ?って、一瞬悩んだけど、部班でお願いしますと答える。
なんか人が多いなあ、と思ったら、なに?新入部員が大挙して来てる? そりゃいいことだねえ。でも、調馬索とかするんなら、私ら各個で乗んなきゃいけないのかな?
心配することぢゃないけど、最初は部班やるっつーんで、よろこんで列に加わる。先頭のご指名をまぬがれたんで、3番手につける。ブルーノートで3番手、もう何もする必要はないだろう、淡々と馬の背中で揺られていることにしよう。
ふつうに軽速歩してたら、「あー、手綱をしっかり持つのはいいことですが、もうちょっと力を抜いて。肘とか手首とか、ラクにして」と言われてしまう。
あらあら、手をガチャガチャしないようにと意識したら、例によって腕を「ロック」したような状態で乗ってたらしい。
あいかわらず、フツーに乗ることができないねえ、姿勢とか以前より少しはよくなってるとは思うんだけど、身体がちがちに固めちゃったり、手綱強く引きすぎたり、過ぎたるは及ばざるがごとしってことばっかやっている。
正反撞では、座ろうとすると、反撞でかくてハネあげられる。ジッと座ろうとするな、逆だ逆、動け、膝とか足首とか関節を固めるな。
というわけで、そのあとずっと、腕とか脚とかの関節を開閉することを意識して乗る。

前の馬が隅角でわりと内を回っていく、それ後ろから見ながら私は、意識して隅角の奥まで突っ込んでまわる。そのぶん距離が空くんで、直線で歩度を伸ばしたりして、距離をつめる。
もちろん、隅角で押し込んだときも、歩度を伸ばそうとして反応してくれたときも、いちいち馬をホメる。いーぞー、その調子、Good!とか何とか口に出して言う、まわりの目は気にしないし。
輪乗り、ガチャガチャしない、内方姿勢あまり過剰に意識しない、まずは、まっすぐ前に出すんだ。
なんか乗りやすいなあ、外にふくれる気が先週はしたんだけど、きょうはそんなことない。やっぱ私がムダに内の手綱ひっぱったりしてたのかな、こないだは。

駈歩、ひっぱんない、脚グリグリしない。外の脚を足ひとつ分うしろに引くだけで、駈歩はラクに出る。
でも勢いがいまひとつなんで、なんかパランパランする、手でジャマしないで、人間のカラダ揺すらず静かに座って、内の脚つかって、とにかく前に出す。後肢がすくなからず踏み込んできたのを感じたら、もう安心。
ときどきハミうけが頼りなくなるけど、そんなこと気にして手をガチャガチャすんのはヤメとく。
とにかく前へ出す、前出たら、とりあえずホメる。あまり馬をいじろうとしてはいけない、きょうはとにかく楽しく乗る。
輪乗りや蹄跡のなかで、ひそかに歩度をつめたり伸ばしたりはしたけれど。
考えないとか言いつつ、やっぱ自分で気になるとこはあって、結局、課題としては、駈歩から速歩にしたところで、カラダの関節をロックしちゃって、前に動くのについていけなくなるとこかなと思う。ヘタすると、ブレーキかけたときに、腰が浮いちゃう。
んなことやってるうちに、部班終了。ま、可もなく不可もなく。
すこし休憩してから、もうすこしだけ各個で乗る。
速歩の輪乗りで、伸ばす詰めるの反応をたしかめる。ついつい手が強くなりそうになるんで、楽しくだぞ楽しくって自分で言う。
最後にちょっと駈歩、広いとこで長めの直線で歩度を伸ばす、次の周は同じとこで詰める。何回かやる、楽しいかな、馬?反応はいいと思うんだけど。
歩度を詰めるときとか、隅角にさしかかったときとか、巻き乗りに入るとことか、そのたびにちょっとエンジンが切れそうになるのは、次回以降の課題としとく。きょうはグリグリガチャガチャしないで、楽しいところで、終わる。

雨は結局はっきりとは降ってこず、手入れしてたら、暖かい日差しも出てきたんで、馬体のあちこち茶色いとこをゴシゴシ洗っちゃう。
芦毛馬の毛並がキレイになると、見ててもきもちいい。

おわってから気がついたんだけど、6月の1週目に恒例の試合がある。きょう訊かれた「障害とびますか?」は、試合に出ますかの意味だったんだろう。
うーん、どうしよーかなー、あんまり積極的には出る気ないなあ。
私の場合、出るったって、どーせ勝てないから、自己満足のためだけのようなもんだし。
ほかに希望者多いし、かたやで馬の数は減ってるから、余計な者は出ないほうがいいと思うんだよねー。
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犬は吠えるがキャラバンは進む

2014-04-18 20:27:30 | CD・DVD・ビデオ
小沢健二 1993年 東芝EMI
前回からのつづき。
っていうのは、西部氏の著書のあとがきに、
>もちろん、私ごときが何をいったとて、マスメディアの現状が改善されるわけのものではない。(略)マスメディアおよび世論形成にたずさわる人々は何ひとつ痛痒は感じないであろう。彼らは「犬は吼える、されどキャラバンは行く」といった様子で現下の大衆社会の公道を行進しつづけるであろう。
ってあったから、このアルバムをすぐ思い出したからである。ただ、それだけなんだが。
このことわざ(なのか?)の肝心な意味について、オザケンはこのライナーノーツで、
>僕の好きなアラビアの諺で、正確な意味はよく知らない。
って、シレッとしてる。
ところが、西部氏のあとがきのほうでは、
>つまり自分は歴史の王道を求めてさまようキャラバン隊員にほかならぬのだ、そしてマスコミ世論の方こそがその危険な彷徨に怯えて騒ぎ立てる犬なのだ、と思うに如くはないということである。
なんて言ってるんで、どうもそういうことらしい。
で、これこそ肝心の曲のほうはというと、これが傑作である。
どーやら、このあとの『LIFE』の成功をおさめたあとのオザケンは、セールス的には成功と言い難かったらしい本作については、“なかったもの”にしちゃってるらしいという話をどこかで見たことがあるが、どーしてどーして、いいアルバムだと思う。
その後のヒットナンバーや、パーフリのノリのいいやつと比べたら、たしかにちょっと地味かもしれないけど、聴いてるぶんにはすごく心地よい。
ただ、たしかに、シチュエーションとしては、あんまり急いだりしてる場面で、聴くようなもんぢゃないとは思うけどね。
ヒマな、っていうか、こころの余裕があるときに、聴いていたい。
みんな言うだろうけど、13分31秒もある「天使たちのシーン」、これはいい。
(オザケンもつくったときは手応えあったろうとは思うよ。だから縮める編集せずに13分余もレコーディングしたんだろう。)
1.昨日と今日
2.天気読み
3.暗闇から手を伸ばせ
4.地上の夜
5.向日葵はゆれるまま
6.カウボーイ疾走
7.天使たちのシーン
8.ローラースケート・パーク
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マスメディアを撃て

2014-04-15 19:27:48 | 読んだ本
西部邁 1991年 PHP研究所
うーむ、これ、もう20年以上経つんだ。いま読んでも何もハズレてないと思うけど。
マスメディアの無責任さとか、深く考えないでその騒ぎに乗ってしまう大衆のダメっぷりに関する評論。
リクルート事件とか、もう私なんかは忘れてたけど「桑田問題」とか、当時の「バカ騒ぎ」の世相を思い出させられた。
>現代民主主義を腐敗させる最大の要因は、マスコミが常軌を外れてコマーシャリズム、センセーショナリズムないしはスキャンダリズムの沼に沈没していく、という点にある。
っていうことに無意識ぢゃいけないよねえ。
マスコミの論調だけをもって、ひとの処分を決めちゃった、ある問題について論じたとこでは、
>つまりマスコミのいったことが証拠となり、それで制裁が下されるのである。(略)論理としては、日本ではマスコミが裁判官になったわけだ。
と言っているけど、現在でもこういう風潮はおとろえてない、っていうか加速されてるような気もする。
政治家が、なにより世論調査とか支持率にばっかり、気を配ってるからねえ。
マスコミの態度ってのは、むかしもいまも、あんまり変わってない。
>自覚症状はないのであろうが、弱者保護のイデオロギーもしくは偽善がすっかり身についたもので、「大」にたいする反発と「小」にたいする同情を隠すことができない
とか、
>こうした混乱の因は、マスコミがすでに第一権力になりおおせているにもかかわらず、まだ反権力の批判勢力であるという誤った自己認識に立っているところにある
とかって意見は、日本のマスコミの特徴だあね。
こういうのに扇動されちゃう国民がつくる社会は、
>大衆民主主義の最悪なところ、それは権力の地位にあるものならば誰彼かまわずに悪罵を投げつけることをもって正義とみなす
って偽善の態度に満ちあふれちゃうんである。
ちなみに、プライバシーが守られない、マスコミの横暴ぶりについては、日本国憲法をあげて、
>奇妙なことに、「表現の自由」を規定した第二十一条は、「公共の福祉」に沿うかぎり、という制限条項が記されていない
と問題提起をしている。
民主主義に話をもどすと、その場その場での多数決で決めれば文句ないだろと思ってるのは、似非民主主義である。
>ここで似非民主主義というのは、伝統の智恵によってみずからを制限づけようとはしないで、いまたまたま生きている自分たちに、つまりゆきあたりばたりに生きている可能性が十分にあるこのいかがわしい自分たちに、主権があるなどと言い張ってやまぬ傲慢な人々のことである。
ということで、ちっとは過去の失敗にも学びなさい。
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楽しく乗るつもりが、またまちがった方向へころぶ

2014-04-14 19:17:46 | 馬が好き
乗馬にいく。
どーでもいーけど、最近「楽しく乗る」ってことを忘れてんぢゃないかと、反省している。
乗りながら、あれこれ考えることは山ほどあるんだけど、ヘタの考え休むに似たり、ろくなことになっていない。
テクニック向上とか試みるより前に、だいたい乗馬って、もっと楽しくなきゃいけないんぢゃないのと、原点にかえることの必要性を感じている。
第一、馬が楽しそうぢゃないや、私が乗ってると。

もっと、馬が自分から興味もって積極的に向かってくとか、できたときに「やった、俺ってすごいだろ!」とか「いまのうまくなかった?もう一回やろ!」って雰囲気が馬から感じられないと、ダメだよね。
乗馬ってそういうもんだと思う。馬が喜びを感じないとね。
というわけで、今日はあまり細かいこと考えずに、馬と「あー楽しかったね」と言えるような遊びのひとときにしようと思って出かけてった。
馬は、ブルーノート。おあえつらえむきだぁ、楽しくやろうぜ。

さて、馬場に入ったら、ウォーミングアップ。
常歩で脚つかうと、グイっと反応する、上出来、ホメる。
きょうは、なるべく馬ホメようと思う。動いてくれたら、まずホメよう。

んぢゃ、部班やります、ということで先頭にさせられる。しかたないなあ、誘導馬だから。
軽速歩。わりと後ろのことはおかまいなしで、動かすほうを優先させる。
「良い姿勢で乗ろうと思ったら、馬を動かす。前に動いていく馬に乗っていく。」
ということなんだが、「馬が自分の前にいるように」というのは、よく言われることなんだけど、けっこう奥義だと思う、そうそういつもできることではない、私には。
んぢゃ、歩度を伸ばしたり、詰めたり。常歩と速歩の移行も混ざる。
軽速歩で歩度伸ばしたら、こんど正反撞で詰める。動いているものを詰める、最初に動いてなきゃ意味がない。
蹄跡行進だけぢゃなく、ときどき輪乗り。輪乗りに入ったら正反撞、そのときスピードおとさない、前進気勢たもって、馬が自分の前にいるように。

なんか輪乗りしてると、外にふくらんでしまう気がする。ついつい内に向けようとジタバタしちゃうんだけど、外の手が例によって前に出てるのを注意される。壁だ、壁つくれ、そして真っ直ぐ前に出す。
このへんから、楽しく乗ろうを忘れだす。それでも、先週までよりは過度なハミうけの要求の意識は、わざと捨て去ってたんだけど、なんか内方姿勢がよろしくないと思って、あれこれいじりだしてしまう。
んぢゃ、輪乗りで駈歩。駈歩出したら、脚、とにかく何歩か勢いよく走らせろって。
繰り返すうちに、一歩目から思ったイメージで出せないんで、またヘンにいじりだしてしまったようだ。
「駈歩出すときに、手をガチャガチャしない! ぴんと張った手綱をそのままじっと持つ!」
またまた、いつもの悪癖、引っ張ってるみたい、困ったもんだ。
だんだんおかしくなってきてる気がする。速歩・駈歩の移行を繰り返すと、馬の反応がよくなる、切り替えが早くなるのがふつうのはずなのに、私だけかえって鈍くしてしまっている。
先頭だからピシャッと決めたいしねえ、なんて思うと、ついにムチまでふるう、最初つかってなかったのに。違うでしょ、動かないからムチつかうぢゃなくて、動いたらホメるって方針でいこうって、今日は決めてきたのに、何やってんの、俺?
駈歩でも外にふくれるほうに気をとられて、前進がおろそかになる。
「脚つかって。キック! ちがう!グリグリしない!それはキックぢゃない!」
すわりがグラグラしてるから、内の脚ドンって使えないんだよね、特に左足は弱いんだ、私。
最後、輪乗りから蹄跡に出て、駈歩の歩度を少し伸ばす。うーん?脚つかうと、腰が浮くなあ、ヘンだよな、これ、上体も前傾してんのかもしれない。
結局、うまく乗れないままに、終了。

なんか、やってるうちに、おかしくなってって、目指していた楽しい乗馬というのとは、とても遠かった気がする。困ったもんだ。
ま、とりあえず、次回は、ガチャガチャしない、グリグリしないを心掛けましょ。
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木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか

2014-04-10 23:39:02 | 読んだ本
増田俊也 平成26年3月 新潮文庫版(上・下巻)
最近読んだ本。
いや、前から存在は知ってたんだけど。すごい分厚い単行本で、ちょっと躊躇してた。
それって、本読みにはあるまじき態度。…でも、プロレスの本って、期待はずれなことありそうな気がして。
そしたら、待望の文庫化。即行、買いである。
でも、私が書店の店頭で気づいて、手にとったときは、3月1日発行なんだけど、すでに20日で3刷を重ねていた。
(みんな文庫なら買うのね。)
話は、昭和29年12月22日、プロレス初の日本選手権試合で、力道山と戦って、負けてしまった木村政彦について。
私は、名前は知ってはいるけど、それほど予備知識なかったんだが、本書読んで驚いたことには、すごく強い人だったんである。
おそらく、過去から現在に至るまで、日本格闘技界では最強。
(ブラジルで、エリオ・グレイシーにも勝ったし、たぶん世界で最強。)
タイトルだけ見て、私は、プロレスのウラ話・昔話だけのことかと、そして、適当な想像・類推が並んでるだけかと、失礼にも思い込んでたんだけど、とんでもない。
よく取材されてるし、その強さのベースにある、柔道の話が、格段に興味深い、勉強になった。
とっくに読んどきゃよかった、なかなかの傑作。

木村自身のことでは、まず若いころのその練習っぷりがすごい。
「三倍努力」なんて、文字にすると簡単だけど、一日に乱取りだけでも九時間やって、それ以外にも深夜で立木を相手に数千本の打ち込み。
ものすごい練習量でできあがった、たとえば大外刈りは、正確で、かつ受けた相手が「痛い」というくらいの勢いだったらしい。
それから、なんつっても「高専柔道」については、私は知らなかったんだけど、興味をもたされた。
高校ってっても旧制高校なんで、いまの大学のほうに近い。一高とか二高とか旧帝大のつながり。
その柔道は、寝技中心で、十五人団体戦の勝ち抜き勝負では、「抜き役」と「分け役」にわかれて攻めと守りを徹底した。
寝技・関節技の新技開発には、理系の学生の知識が動員され、さらに猛稽古でバリエーションが生み出されて、全国大会では各校独自の技能がぶつかりあう激戦が行なわれてたそうな。
(>高専柔道では『(上の体勢にいる者は)脚を一本越えるまでは帯より前に手を出すな』という最初に教えられる格言があり(略)なんて解説もあり、まさに総合的寝技のノウハウがすでにあったと思われる。)
で、それに対して、講道館が立ち技中心のルールを推し進めてったんだけど、戦後いろいろあって講道館柔道が主流になってしまったから、いまの柔道がそうなってしまっているらしい。
だから、一本をとる形のキレイな柔道なんてのは、実は日本柔道全体での伝統なんかぢゃないし、近年の国際化で各国がポイントねらいの柔道をするようになったからといって、身から出たさびみたいなもんなんで、批判することはできない。
もともとの柔術、柔道には、打撃技に近い当て身の技術が含まれてて、打・投・極のコンビネーションによる、要するに総合格闘技だったらしい。
戦前の柔道がそのまま発展してたら、総合でも(ブラジリアン柔術くらいに)もっと強かったかと思うと、失われちゃったものが残念だと私なんかは思う。
ちなみに、講道館創始者の嘉納治五郎は、総合格闘技のような実戦的な訓練の必要性を説いてたらしいんだけどね。
>講道館=全柔連がGHQにその場を取り繕うような形で「柔道は武道ではなくスポーツである」と断言してまで柔道を復活させた経緯を検証・総括できていないことが、実に六十年たったいまでも柔道界を混乱させているのだ。
って著者は指摘してますが。
一方、木村の弟子の岩釣兼生は、師匠にすすめられたこともあり、柔道をある程度極めたあともサンボを練習したりしてる。
>関節技は柔道よりサンボの方がずっと上です。脚の関節がひとつ入るだけで寝技の体系が変わってしまいますから柔道の寝技では脚が隙だらけなんです。(略)柔道も脚関節を許していかないと格闘技として本物にはなれません
なんて発言してるように、志が高い。
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