つい先頃無くなった河合隼雄さんと言えば、先の文化庁長官として知られていますが、もともとはユング派の心理学者です。
しかしその興味の対象は広く、心理学から派生して文化・社会に関しても多くの著作があります。
『母性社会 日本の病理』は1976年に出された本を単行本化したもので、当時発表したいくつかの文章を合わせたものですが、その鋭い分析は今日なお切れの良い論調です。
タイトルにも用いられた「母性社会」というのが日本の社会を一言で言い表すキーワード。もう30年も前に著者は当時の『日本社会の社会情勢の多くの混乱は、筆者の見解によれば、父性的な倫理観と母性的な倫理観の相克(そうこく)のなかで、一般の人々がそのいずれに準拠して良いか判断が下せぬこと、また、混乱の原因を他に求めるために問題の本質が見失われることによるところが大きいと考えられる』と看破しています。
著者の河合さんは臨床心理学者として個人の心理療法に当たるうちに、その個人の心の中に彼を取り巻く社会や文化のあり方が反映されていると感じることが多く、そこに我が国の母性文化の特質が存在していることを痛感するようになった、と言います。
母性の原理は、全てのものを良きにつけ悪しきにつけ包み込み、そこでは全てのものが絶対的な平等性をもつ、という面をもち、しかしながらその原理は同時に、自分が包み込んだはずのものが自分から離れることを許さないという側面も持ちます。
そうして母性原理は肯定的に見ると生み育て慈しむものであり、否定的に見ると、飲み込みしがみつき、死に至らしめるという側面ももつものとして理解されます。
これに対して父性原理は「切断する」機能にその特性を示します。全てのものを善と悪、上と下、認めるものと認めないもの、などなど。
母性が子供を平等に可愛がるとしたら、父親は良い子と悪い子を分ける規範を持って子供を鍛えようとします。しかしながらこの父性もあまりに強すぎると、切断の力が強すぎて破壊にいたる面も持ちます。
この二つの相反する原理は、もちろんどちらかだけを有するものではなく、両者の面を持ちながらそのどちらかが優勢に働く、という形で現れるのですが、我が国はどう考えても母性の強い社会であると認識されているようです。
※ ※ ※ ※
河合さんの文章の中で面白かったのは、日本は元々母性社会が強かったので、それ一辺倒で行くのを避ける意味で社会の装置として家父長制という父性原理でその短所を補償してバランスを取る工夫をしていたのではないか、と言う下り。
それが戦後、アメリカが平等意識を持ち込んで家父長制を破壊したところで、母性社会に歯止めをかける社会的機能が働かなくなったのではないか、と言うのです。
しかしながらそのアメリカは、と言うと、強すぎる父性原理の社会であるが故にいかに母性を取り返すかということに腐心しているのだ、とも述べられていて、日本がいかに父性を取り戻すかに苦労していると言うことと対比されています。
※ ※ ※ ※
この母性と父性は、平等主義か能力主義か、という事にもつながり、最近の日本が能力主義を取り入れようとやっきになっているのは、母性社会に父性社会を取り戻す動きの一環と読めないこともありません。
しかしどうも日本人には、急激な変化の中でその肯定的な面についていけていないようにも見受けられます。世の中を動かして行くにはバランスとゆっくりとした時間をかける必要があるということです。
自動車を運転していてハンドルを切るときは、ハンドルの【あそび】を使いながら少しずつカーブして行くものです。そうした時には少し戻すような操作をしながら目的の方向に舵を切って行く柔軟な操縦方法が必要なのです。
さて、母性社会と父性社会のバランスをどう取って行きましょうか。
しかしその興味の対象は広く、心理学から派生して文化・社会に関しても多くの著作があります。
『母性社会 日本の病理』は1976年に出された本を単行本化したもので、当時発表したいくつかの文章を合わせたものですが、その鋭い分析は今日なお切れの良い論調です。
タイトルにも用いられた「母性社会」というのが日本の社会を一言で言い表すキーワード。もう30年も前に著者は当時の『日本社会の社会情勢の多くの混乱は、筆者の見解によれば、父性的な倫理観と母性的な倫理観の相克(そうこく)のなかで、一般の人々がそのいずれに準拠して良いか判断が下せぬこと、また、混乱の原因を他に求めるために問題の本質が見失われることによるところが大きいと考えられる』と看破しています。
著者の河合さんは臨床心理学者として個人の心理療法に当たるうちに、その個人の心の中に彼を取り巻く社会や文化のあり方が反映されていると感じることが多く、そこに我が国の母性文化の特質が存在していることを痛感するようになった、と言います。
母性の原理は、全てのものを良きにつけ悪しきにつけ包み込み、そこでは全てのものが絶対的な平等性をもつ、という面をもち、しかしながらその原理は同時に、自分が包み込んだはずのものが自分から離れることを許さないという側面も持ちます。
そうして母性原理は肯定的に見ると生み育て慈しむものであり、否定的に見ると、飲み込みしがみつき、死に至らしめるという側面ももつものとして理解されます。
これに対して父性原理は「切断する」機能にその特性を示します。全てのものを善と悪、上と下、認めるものと認めないもの、などなど。
母性が子供を平等に可愛がるとしたら、父親は良い子と悪い子を分ける規範を持って子供を鍛えようとします。しかしながらこの父性もあまりに強すぎると、切断の力が強すぎて破壊にいたる面も持ちます。
この二つの相反する原理は、もちろんどちらかだけを有するものではなく、両者の面を持ちながらそのどちらかが優勢に働く、という形で現れるのですが、我が国はどう考えても母性の強い社会であると認識されているようです。
※ ※ ※ ※
河合さんの文章の中で面白かったのは、日本は元々母性社会が強かったので、それ一辺倒で行くのを避ける意味で社会の装置として家父長制という父性原理でその短所を補償してバランスを取る工夫をしていたのではないか、と言う下り。
それが戦後、アメリカが平等意識を持ち込んで家父長制を破壊したところで、母性社会に歯止めをかける社会的機能が働かなくなったのではないか、と言うのです。
しかしながらそのアメリカは、と言うと、強すぎる父性原理の社会であるが故にいかに母性を取り返すかということに腐心しているのだ、とも述べられていて、日本がいかに父性を取り戻すかに苦労していると言うことと対比されています。
※ ※ ※ ※
この母性と父性は、平等主義か能力主義か、という事にもつながり、最近の日本が能力主義を取り入れようとやっきになっているのは、母性社会に父性社会を取り戻す動きの一環と読めないこともありません。
しかしどうも日本人には、急激な変化の中でその肯定的な面についていけていないようにも見受けられます。世の中を動かして行くにはバランスとゆっくりとした時間をかける必要があるということです。
自動車を運転していてハンドルを切るときは、ハンドルの【あそび】を使いながら少しずつカーブして行くものです。そうした時には少し戻すような操作をしながら目的の方向に舵を切って行く柔軟な操縦方法が必要なのです。
さて、母性社会と父性社会のバランスをどう取って行きましょうか。