仕事の関係で法政大学の陣内秀信教授という方とお知り合いになれました。
陣内先生は『東京の空間人類学』という本をもう20年以上も前に書かれて、東京という都市の空間的特徴についての論考を世に出されたのでした。
この本の中で先生は、外国人に対して東京を説明しようと、東京の都市空間の秘密を解いてみようと思い立ったのだそう。そこで、地形・道路・土地利用などに注目しつつ、江戸からの連続性がそれぞれに見られることと、近世の構造が現代の東京の基層に生き続けていると言うことが示せたのでした。
そしてこのような、外国人に対して説明する作業を通じて、つくづく、感じたことは『近世の江戸と近代の東京を分けてしまったのでは、今の東京の特徴は皆目理解できないのであって、その両者の様々な混ざり合いの結果、ユニークな東京の姿ができあがっていると考えるべきだ』という結論でした。
私も最近この『東京の空間人類学』を読んで、東京の見方を教えていただきましたし、逆に言えば、半年以上東京の街を精力的に巡ってきたおかげで、本に紹介される場所のイメージがあらかた掴めていることにも気付いたのでした。
全く、まち巡りなどして何の役に立つのかと思いきや、意外なところで変な実力がついていたと言う訳なのです。
陣内先生はイタリアの都市空間についてもご造詣が深く、そんな著書や研究の中で日本の中の広場について、お詳しいことから、今回行っている、東京の空地についての勉強会の懇談会に出ていただくお願いをし、ご快諾もいただけたのでした。
そんななか、直接先生から広場についてお話を伺って、夜も懇親会をお願いしていたところ、それも叶い、今日の夕方に「日本人にとっての広場とは何か」というタイトルで講話をしていただきました。
※ ※ ※ ※
先生のお話の中で面白かったのは、「世界で一番広場が似合うのはイタリア人です」ということ。イタリアの諸都市には必ずまちの真ん中に広場があって、イタリア人たちは用もないのにそこで立ち話をするのが大好きなのだそう。
日本人だったらすぐに木陰のベンチで座ってしまうのに、イタリア人は立ち話。おまけに、日本の広場はやたらと緑があるのに、イタリアの広場には樹木はほとんど無いそうです。そんなところにもお国柄が見て取れます。
ある時イタリア人の先生が日本に視察に来て感想を述べたのが「イタリア人は滞留しているけれど、日本人は流れている」という言葉だったそうです。
つまり日本人は一つところでじっとしているよりも、動き回ったりぶらついたり、何かしていないと気が済まない性格だ、と見抜かれたのだそう。
日本では大きな広場があまり発達しなかった代わりに、商店街などの道すがらに賑わいが連続する方を好んだとも言えそうです。
それが日本人の性格なのだとしたらそうした界隈性を重要視したまちづくりが似合うはず。最近流行の屋台村などもそんな辻沿いの飲屋街風の演出が受けているわけで、これは実は日本人の性格に実にマッチした作り方だったんですね。
では広場は全くなかったか、というとそうでもなくて、神社仏閣の境内は、縁日の賑わいや清浄な祭りや儀式を行う多目的な広場でした。
さらに、江戸時代では両国橋や江戸橋のたもとに広小路と呼ばれる広場があって、実はこここそ芝居小屋や店が出るなど、娯楽の少なかった江戸にあって代表的な賑わい広場空間であったのです。
そこは地域の有力者がお上から管理する権利を手に入れて、独特の秩序の下で、経済的にも利益を得ながらそれを地域に還元するという仕組みができあがっていたのです。
しかし近代はそういう地域コミュニティによる仕組みというものを前近代的であるとして否定し、公共施設はお上が管理するという手法を選びました。
明治以来、日本の近代はそういった地域管理が行われてきたのですが、ここへきて何でも公が管理するということにも無理が見られるようになってきたようです。
しっかりしたルールの下で、地域のことは地域が管理をするという流れになりつつあるのです。それはまた、広場が復権を果たす前触れなのかも知れません。
※ ※ ※ ※
陣内先生にお願いをして、買った単行本にサインをいただきました。へへへ、これも役得です。
陣内先生は『東京の空間人類学』という本をもう20年以上も前に書かれて、東京という都市の空間的特徴についての論考を世に出されたのでした。
この本の中で先生は、外国人に対して東京を説明しようと、東京の都市空間の秘密を解いてみようと思い立ったのだそう。そこで、地形・道路・土地利用などに注目しつつ、江戸からの連続性がそれぞれに見られることと、近世の構造が現代の東京の基層に生き続けていると言うことが示せたのでした。
そしてこのような、外国人に対して説明する作業を通じて、つくづく、感じたことは『近世の江戸と近代の東京を分けてしまったのでは、今の東京の特徴は皆目理解できないのであって、その両者の様々な混ざり合いの結果、ユニークな東京の姿ができあがっていると考えるべきだ』という結論でした。
私も最近この『東京の空間人類学』を読んで、東京の見方を教えていただきましたし、逆に言えば、半年以上東京の街を精力的に巡ってきたおかげで、本に紹介される場所のイメージがあらかた掴めていることにも気付いたのでした。
全く、まち巡りなどして何の役に立つのかと思いきや、意外なところで変な実力がついていたと言う訳なのです。
陣内先生はイタリアの都市空間についてもご造詣が深く、そんな著書や研究の中で日本の中の広場について、お詳しいことから、今回行っている、東京の空地についての勉強会の懇談会に出ていただくお願いをし、ご快諾もいただけたのでした。
そんななか、直接先生から広場についてお話を伺って、夜も懇親会をお願いしていたところ、それも叶い、今日の夕方に「日本人にとっての広場とは何か」というタイトルで講話をしていただきました。
※ ※ ※ ※
先生のお話の中で面白かったのは、「世界で一番広場が似合うのはイタリア人です」ということ。イタリアの諸都市には必ずまちの真ん中に広場があって、イタリア人たちは用もないのにそこで立ち話をするのが大好きなのだそう。
日本人だったらすぐに木陰のベンチで座ってしまうのに、イタリア人は立ち話。おまけに、日本の広場はやたらと緑があるのに、イタリアの広場には樹木はほとんど無いそうです。そんなところにもお国柄が見て取れます。
ある時イタリア人の先生が日本に視察に来て感想を述べたのが「イタリア人は滞留しているけれど、日本人は流れている」という言葉だったそうです。
つまり日本人は一つところでじっとしているよりも、動き回ったりぶらついたり、何かしていないと気が済まない性格だ、と見抜かれたのだそう。
日本では大きな広場があまり発達しなかった代わりに、商店街などの道すがらに賑わいが連続する方を好んだとも言えそうです。
それが日本人の性格なのだとしたらそうした界隈性を重要視したまちづくりが似合うはず。最近流行の屋台村などもそんな辻沿いの飲屋街風の演出が受けているわけで、これは実は日本人の性格に実にマッチした作り方だったんですね。
では広場は全くなかったか、というとそうでもなくて、神社仏閣の境内は、縁日の賑わいや清浄な祭りや儀式を行う多目的な広場でした。
さらに、江戸時代では両国橋や江戸橋のたもとに広小路と呼ばれる広場があって、実はこここそ芝居小屋や店が出るなど、娯楽の少なかった江戸にあって代表的な賑わい広場空間であったのです。
そこは地域の有力者がお上から管理する権利を手に入れて、独特の秩序の下で、経済的にも利益を得ながらそれを地域に還元するという仕組みができあがっていたのです。
しかし近代はそういう地域コミュニティによる仕組みというものを前近代的であるとして否定し、公共施設はお上が管理するという手法を選びました。
明治以来、日本の近代はそういった地域管理が行われてきたのですが、ここへきて何でも公が管理するということにも無理が見られるようになってきたようです。
しっかりしたルールの下で、地域のことは地域が管理をするという流れになりつつあるのです。それはまた、広場が復権を果たす前触れなのかも知れません。
※ ※ ※ ※
陣内先生にお願いをして、買った単行本にサインをいただきました。へへへ、これも役得です。