北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

そんな時代もあったのだ~放射能にさらされた時代

2011-03-22 23:56:33 | Weblog
 大津波による原発事故が引き金となって、福島県では放射能と風評被害によって大きなダメージを受けています。

 放射能が外部に漏れださなければ良かったのですが、ひとたび漏れ出した以上周辺に大きな不安を与えるのもこれまた事実。

 当初は「○○マイクロシーベルトの放射能がぁっ!!」と言って、確かに事実ではあるけれどその意味が分からない数字をもって事故を伝えていたマスコミも、最近では放射能と健康の関係を少しは説明するようになりました。

 「背景教養を伴わない『事実』」というものがいかに有害かを如実に示す結果となってしまいました。

 そしてなお難しいのはこの背景教養を伝えるということ。分かっている人がいくら説明しても、わからないものにはちんぷんかんぷんということはしばしば起こるもの。

 情報の偏在は一朝一夕に解決しないので、だからこそ普段からいろいろなことに興味と関心を持つ生涯学習の真の意味があるのですが…。



    ※     ※     ※     ※     ※



 私が良く読む『安岡正篤 一日一言』という本の中で、「思考の三原則」という一説が紹介されていました。曰く、

 私は物事を、特に難しい問題を考えるときには、いつも三つの原則に依る様に努めている。
 第一は、目先に捉われないで、出来るだけ長い目で見ること。
 第二は物事の一面に捉われないで、出来るだけ多面的に、出来れば全面的に見ること。
 第三に何事によらず枝葉末節に捉われず、根本的に考える。

 …というものです。多面的な視点で物事をとらえたいもの。


 さらに、多くの読者を持つパワーブロガーである三橋貴明氏は、「ロジカルシンキングのために」として数値データの読み方三原則を教えてくれました。曰く、

 数字は、①割合で見る(=絶対値で見ない)、②流れで見る(=瞬間値で見ない)、③相対化する(=他社と比較する)ことが大切、というもの。

 今の放射能騒ぎもこれに当てはめてみるとどうなるでしょうか。


    ※     ※     ※     ※     ※


 さて、そんななか掛川の友人から「このブログって説得力あると思いませんか」というコメントと共に教えられたのがこのブログ。なるほどー、そういう時代ってあったんですねえ…



【続・たそがれ日記】 「放射性物質にさらされた時代」
 http://ow.ly/1sd5io

---------------≪ ここから引用 ≫--------------

(前略)

 ところで、もうすっかり忘れられているが、戦後、日本人が大量の放射性物質にさらされた時代が、かってあった。

(追記:1945年8月のアメリカ軍の原子爆弾投下による広島・長崎の被曝は、この話とはまったく次元が違います。関係の方々には失礼いたしました)

 それは、1950~1960年代。
 この時期、アメリカ、ソビエト連邦、イギリス、フランス、中華人民共和国などが、大気中で核実験(原子爆弾・水爆爆弾の爆発実験)を数100回も繰り返した。

 1963年8月にアメリカ、イギリス、ソ連との間での大気圏内、宇宙空間及び水中における核兵器実験を禁止する(部分的核実験禁止条約)が締結されたが、フランスと中華人民共和国は、その後も大気中での核実験を続けた。

 その結果、膨大な量の放射性物質が大気中に放出され、多くは成層圏にまで達し、上層の気流に乗って世界中に振り撒かれた。




「排出放射性物質影響調査:大気中核実験」
http://www.aomori-hb.jp/ahb2_08_t01_term.html
 上のグラフは青森市で観測されたストロンチウム90(Sr90)とセシウム137(Cs137)の年間降下量の変化を示している。

 1980年代後半にちょっと増えている所があるが、それがチェルノブイリ発電所事故。
 それと比べると、1960年前後が、いかにすさまじい時代だったかがわかる。  (以下略)


---------------≪ 引用ここまで ≫--------------


 原発の封じ込めの成功と、数値を改めて冷静に読み取っていただけるよう願います。


 放射能で被害を受けている福島県及びその近傍にお住いの皆様には心からお見舞い申し上げます。一日も早く平穏な日が来ることをお祈りします。
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被災者支援モードへGO!

2011-03-22 23:45:06 | Weblog
 今日の午後に津波被害の復旧対策本部会議を開いて、改めて今回の被害の総括を行いました。被害を受けた皆様には心からお見舞い申し上げます。

 MOOについては元通りに復旧するまでは3~4ヶ月かかりそうだという調査結果が出たようですが、臨時的な対応でどこまでそれを短くできるかを検討中とのこと。少しでも早い復旧が望まれます。

 そして、まだ残る作業もあるものの担当が決まって復旧の道筋がおおむね見えた来たことを受けて、本日をもって復旧対策本部会議は解散となりました。

 この間既に釧路にも様々な形で被災地の避難者から釧路での避難民受け入れの可能性について問い合わせが来ていて、もう釧路も被災モードから避難地支援モードに移行するときが来たようです。

 避難者受け入れのための市営住宅の空き状況調査については、市内で3戸、阿寒地区で3戸の合計6戸と回答していますが、社宅を持っている市内の民間事業者から無償での社宅提供申し出があり、受け入れるための準備を進めています。

 市長からは、「阪神淡路大震災の時は仮設住宅に入るのに公平性の観点から抽選をしていれたけれど、それは結果として地域のコミュニティを壊して孤独なお年寄りを増やしただけだったという反省に立つべきだ」という考えが示されました。

 そのため、避難者受け入れ住宅も市内にバラバラにあるのを集めるのではなく、申し出を受けたような一棟全部が避難者用住宅というような形で受け入れるようにしようということで、6戸に追加する形で一棟18戸の住宅を借りるべく準備を進めています。

 今後もさらに避難者が増えてくるようであれば、受け入れ住宅の数を増やしてゆくことを検討してゆきます。


    ※     ※     ※     ※     ※


 また、子供の転向のため教育委員会や住宅あっせんのための住宅課など問い合わせ先がバラバラであるのを、総務部総務課に担当の係を指定して受け入れ窓口を統一させることも指示を受けました。

 私は避難者受け入れチームくらいになると良いと思っていますが、事実上釧路市も被災者支援ステージに入ったということでしょう。

 実際に人や家族が来るとなると、身の回りの品々や子育て、医療支援、生活支援など様々な形の支援が必要になることも予想されます。

 今回の震災に対しては大変多くの寄付が集まっていますが、そうした何かしてあげたいという市民の皆さんの出番が近づいているのかもしれません。

 
 市役所職員による募金活動では254万7千円が集まったという報告も受けました。

 これらのお金は東北三陸地域でサンマやサケマスの外来船誘致活動をしてお付き合いがある自治体に送られることになっています。

 いよいよ釧路も遅ればせながら被災者の支援モードに入ります。市民の皆さんのご支援をよろしくお願いします。 
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