北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

道東を近世の歴史から見てみよう

2012-07-31 23:45:50 | Weblog
 「まちと暮らしネットワーク」という会で講話をする機会をいただきました。

 この会どんなテーマでも良い、ということでしたので、かねてより一度話してみたかった「近世における東蝦夷地の国境外交」についてお話をしました。

 私の基本的な問題意識は、①なぜ道東は日本の中で辺境(と思われているの)か、②国境の地域は国としてどのように関わるべきか、というようなこと。

 そうしたことを想起させる出来事があったのが、18世紀後半からのこの道東地帯でした。

 「ロシアが千島列島を南下しつつあり北辺の警備を強化すべし」と唱えたのは「赤蝦夷風説考」を著した林子兵ですが、それを受け止めた幕府の実力者が田沼意次。

 田沼は天明5~6年に蝦夷地に大探検隊を送り込んで北辺の情勢を探らせるとともに幕府の財政に貢献できる道筋を探りました。

 しかし田沼は天明6年に失脚、次に老中となった松平定信は田沼色を排除し、北方警備や蝦夷地開拓も沙汰やみとなりました。

 しかしその後、日本からの漂流民大黒屋光太夫を送り返すという名目で根室にロシアのラクスマンが訪れたり、室蘭にイギリスのブロートンが立ち寄るに至って、北方は捨て置けなくなり、幕府として新たな探検隊を送ります。

 この探検に参加したのが近藤重蔵と最上徳内のコンビで、彼らは北辺警備の要諦は蝦夷地や千島の島々にすむアイヌの人たちを日本の味方にするかロシアの味方にするかだ、と見抜きます。

 その頃アイヌ交易の権利を買っていた場所請負の商人たちの中にはアイヌの人たちに厳しい仕打ちをする者がいて、幕府はそれを放ったらかしにし、かつ北辺警備も軽んじている松前藩には蝦夷地経営を任せられないと判断して、直轄化を図りました。

 その後は、交易を求めるロシアのレザーノフ来航、なんとかごまかした日本への報復としてのフヴォストフ事件と次第に国境の関係はきな臭くなってゆきます。

 その流れの中で最大の事件は、クナシリでディアナ号艦長だったゴローニンを日本側が捕えたゴローニン事件です。

 彼らは松前まで護送されてそこで囚われの身となります。

 それに対するロシア側の報復が、高田屋嘉兵衛を捕虜としたことでしたが、ここで高田屋嘉兵衛の人間力が力を発揮します。

 彼はロシア側の信用を得て、幕府側と掛け合ってゴローニン事件を解決に導きました。

 ペリーが黒船で浦賀にやってきた40年以上も前に、ここ道東を舞台にした辺境の外交の歴史があったのです。

 
    ※     ※     ※     ※     ※


 この歴史から推し量れることは、一つには国境の辺境の地は地方ではなく国がしっかりと関わらなくてはいけない、ということです。

 また二つ目にはそういう目で見た時に、国における現在の根室をはじめとした北方領土隣接地域の振興にはシンパシーが足りないのではないか、と思えます。

 東京から見るから北海道は辺境で、札幌から見るから道東は辺境に見えます。

 しかし環オホーツク海で見れば、樺太も宗谷も道東も千島列島もみな同様に見えますし、この中での日本は発展した地域と言えるでしょう。

 地域の歴史をしっかりと見据えながら、自らの可能性を磨いてゆきたいものです。
 

 【環オホーツクで考えれば一番発展している】
コメント
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