昨日のホッケ釣りでいろいろ考えたこと。
小樽港は色内埠頭が使えなくて、釣り人が厩岸壁に集中しているため場所取りが難しい。
まさか釣りのために修繕してくれ、と言っても通じないでしょうが、インフラは使えなくなるまで放置すると仕えるようにするためには莫大な費用が掛かります。
予算を査定する部局に言わせると、「使えなくなったら【仕方がないので】予算をつけますよ」と言う。
それって、予算の理由を「仕方がないから」という安易な理由に持ち込んで説明しやすくしているだけで、早めに修繕予算をつけておくと、結果的には機能を維持するために安く済むのにです。
つまり、自分の説明のしやすさのために、結果として納税者としては高い費用負担をさせられているという意味で、行政の不作為と言えるのではないでしょうか。
結果的に安く済ませるためという理由がちゃんと説明できれば、壊れる前の適切な時期に修繕するという選択があるはずなのに、議会も市民も誰もそういうことを指摘しない。
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釣れないながらもわずかに釣れたホッケを家でさばきました。
釣ったホッケはどれもお腹が、釣り師たちが撒く撒き餌でパンパン。
お腹が一杯なのだから、簡単には釣り針の餌にも食いつかないのでしょうが、それでも釣れたという事は、お腹が一杯なのになお食べようとして釣られてしまった、というわけ。
ある意味、「足るを知らないことで不幸になる」ということの極みではなかろうか。
二宮尊徳は、「人間と禽獣の違いは、物事を推譲できるかどうかにある」と言いました。
推譲とは「譲る」「差し出す」「我慢して先へ延ばす」といった意味ですが、良い意味で次のことを考えて我慢するという意味が込められています。
禽獣は、目の前にある食べ物を明日のことを考えずに食べてしまいますが、人間は明日のことを考えて今日のものを明日に取っておくことができるし、自分のものを独占してしまわずに誰かに差し出すこともできます。
そういう理性があることと、自分のことだけでなく子や子孫や社会のことを考えてそのために利他的に行動できるのが人間だ、というわけです。
もっとも、目の前の食べ物をつい食べ過ぎてしまい、ダイエットに失敗するのも人間なので、まあ一つの理想として覚えておけばよいでしょうか。
あまりに釣れない時間が長かったので、遠くの色内埠頭を眺めながら、そんなことを考えていました(笑)。