北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

ビリでいいのだ、ビリ万歳!

2018-04-06 23:50:38 | Weblog

 

 振り返ってみると、僕は成績は悪いが運は良かったのだと思う。

 大学に入った時は、入学時は理類という大きなくくりで入れてもらったが、多分それもかなりびりに近かったと思う。

 大学は二年生の後半に、学部と学科を決めて、それまでの教養時代の成績順に希望の学部に配属になる。

 いくら良い成績でも、目指す学科の定員が満員ならば入れないし、逆にいくら成績が悪くても空きさえあれば入れるというシステムだ。

 僕は農学部農学科という学科に入りたくて、そこを第一志望にした。定員は25名。

 食用作物、工芸作物、育種、果樹蔬菜、花卉造園という5つの講座ごとに5名の募集人員なので全部で25名なのだ。

 指定された発表日に、農学部の掲示板を恐る恐る見に行くと、僕の学生番号が農学科の蘭に記載されていた。合格だ!

 しかし良く見ると、番号は26番。

 後から聞いたけれど、この年は留年性が多く、少しずつ移行定員を増やした結果、農学科は26名の学生が合格だったのだ。僕は小指の爪一枚引っかかる形で農学科に入ることができた。なんという幸運!


 学生時代も、出来が良いわけではなかったが、なんとか国家公務員試験造園職に合格できた。

 造園という職種で、進路は建設省(当時)と意を決して面接に臨んだ。

 面接の待合室には10人ほどの志望者がいて、ここでも成績順に名前が呼ばれて面接を受けに部屋を出ていく。

 僕の順番になって、面接官の前に進むと、面接官が申し訳なさそうな顔をして、開口一番、「小松さん、実は君の前の人で建設省の募集枠の4人が決まってしまいました」と言う。

 驚いて、「ではどうしたら良いでしょうか」と訊くと、「公団や地方自治体からも紹介の要望があるけれど、国家公務員であれば、北海道開発庁(当時)が一名募集をしています」と教えてくれた。

 考える時間もなく、「それでは北海道開発庁に行きたいと思います」と言うと、「では連絡をしておくので、そちらへ面接に行ってください」と言われ、僕は北海道開発庁採用となり、その結果、公務員生活も北海道で終えることになり、今に至る。

 もし建設省採用になっていたら、公務員生活の最後は東京になったはずで、ビリ万歳である。


 そうやって始まった公務員生活だったが、縁が縁に繋がって、掛川市で榛村純一市長(故人)の下で国から派遣の最後の助役として3年間を過ごすことができた。ビリの助役だ。

 それが縁でまた釧路市の副市長になったときに、釣りに出会って、先日亡くなった川野先生の晩年と袖すりあうように多生の縁をいただき、釣りの楽しみというものに引き込まれた。


 今年になってから榛村さんが亡くなり、川野先生が亡くなった。

 一つの時代が過ぎて行ったように感じるけれど、それでも僕は、榛村さんと川野先生という偉大な先輩たちとの縁を滑り込むようにして、ビリで得ることができた。

 伝説になってゆくであろう人と、リアルな時を過ごせたという事は、もう書き物や人の言葉で得られる以上の思い出を抱きながら過ごせる幸せにつながっている。

 トップで、一番にその世界に入るのではなく、ビリがおずおずとその世界を見せてもらっているのだから、当然この世界を垣間見られることの幸せに感謝する思いが人一倍強いのではないか。

 何番目でも試験は合格すればよいけれど、ビリにはビリなりの感慨がある。

 ビリでもいいのだ!ビリ万歳だ!ビリなんて、なろうと思ってなれるものじゃない。

 この幸運を大いに味わってやろうじゃないか。はっはっはー


 【在りし日の川野先生と】

コメント
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