北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

家族葬の是非を考える ~ お坊さん(の友達)に教えられた話

2022-10-10 22:27:53 | Weblog

 

 昨日開催されたクラス会で僧侶の友人と話したなかで考えさせられることがありました。
 
 それは「家族葬」の問題。

 家族葬は一応「親しい方を中心に個人を見送るお葬式の総称」とされていて、必ずしも明確な定義はありません。

 ただそれは従来型の、新聞にお葬式の日時や場所を掲載しまた生前の様々な繋がりの果てまで亡くなった報せを届けてとにかく多くの参列者を招く形へのアンチテーゼということでしょう。

 広く知らせることで生前の付き合いが浅かった人までもが参列し、香典を持参するということは、参列する側になってみると参列するかどうか、香典を持参するかどうかに迷う、いわゆる「つきあいの濃さ」のギリギリにいる人たちには心の負担かもしれません。

 そうしたことを慮(おもんぱか)ると、「そういう負担は申し訳ない」と考えるようになります。

 そういうことから、葬儀は家族を始めごく近親者のみで行って、葬儀を終えた後で故人を見送った報せを周囲に伝える。

 香典や供花を受け取るタイミングはないし、持ってこられても受け取らないということで仕切るとそれはそれで周りも気持ちが楽なのだろう、と思うわけです。

 

 
 しかし冒頭の僧侶の友人は「そうじゃないよ」と言います。

「まずお見送りをする方の生前の付き合いでやり方を考えるべきだ、と思うわけ。それは、もう高齢の親などで周りにも付き合いをしている方がほとんどいない、というのなら、家族葬でいいと思うよ。しかし、町内会や回りにお世話や貢献をして慕われているような方ならば、最後にお別れの機会を作ってあげるべきだと僕は思う」
「ふむふむ」

「確かにかかるお金を考えると小さいところでやればかからないような気がするけれど、従来型でも家族葬でもお寺さんへのお礼のお布施は変わらない。小さな会場でもかかるものはかかるし、広いところでやれば香典を持ってこられる方もいて、なんだかんだで持ち出しは同じようなもの」
「うん」

「何より問題なのは、お見送りをする範囲を近親者に限ることで、家族葬を終えたあとに『どうしても弔意を表したい』といった故人を慕う方がご自宅に次から次へと来られて、結局いつまでも対応がずるずる続くという事があるんだよ」
「ははあ」

「社会の中でそういう儀式をこの2時間に込めましょう、そして気持ちにけりをつけましょう、というのがお葬式と言う儀式なのに、その機会を奪うという事は、遺された人たちにずっともやもやをのこすことにもなっちゃう」

 
 周りの人たちに対して「故人のために気遣いをしてくださらなくて結構ですよ」というこちらの気遣いのつもりが、実は周りへの気遣いになっていないことがある、という想像力は働かせてほしいね。

 
 いわゆる従来型のお葬式では、家族も知らない故人の昔の友達が現れて故人の知らなかった一面を教えてもらえることもあるなど、面倒やお金には代えられない縁と繋がりの出来事が与えられることがある。

「お葬式も社会の中ではないがしろにできない縁と縁を感じる儀式だからね。人には迷惑をかけてもいいんだよ、申し訳なくても良いんだよ。『今日だけはお許しください』で良いんだよ」

 だから流行っているのは分かるけれど、故人の生前の社会の中のお立場を考えた式にして差し上げてほしいというのが彼の言い分です。

 別にお坊さんが儲からないから、などという下世話な理由ではありません。

「生きることは関わることで、それは人に迷惑をかけること」という人間の業の最後がお葬式だ、という考えはいかがでしょうか。

 私自身、今まで何も考えずに「もう時代は家族葬なんだろうな」と思っていましたが、例えば亡くなった方の年齢やその時の立場によってもやり方は考えなくてはならないのだな、と思いました。

 いろいろと友人から教えられたクラス会でした。

コメント
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