興趣つきぬ日々

僅椒亭余白 (きんしょうてい よはく) の美酒・美味探訪 & 世相観察

評論家の功罪

2015-02-14 | 時には芸術気分

オランダ出身の世界的名指揮者、ベルナルト・ハイティンク(1929~)のことを、わたしは長いあいだ誤解していた。凡庸な指揮者であると・・・。

最近、ハイティンクのCDを2枚立て続けに買った。ハイティンクのレコード・CDをわたしが買ったのは初めてである(マーラー4番、シューマン1~4番の交響曲)。
聴いてみると、どれもなんとすばらしい演奏であることか。

曲の流れが自然で、奇を衒うところのない堂々とした演奏である。それでいて緩急・強弱が自在。間合いも絶妙。名門オーケストラ(コンセルトヘボウ)を完全にコントロールしている。
凡庸どころか、名人の技だ。

なぜ長いあいだわたしがハイティンクを凡庸な指揮者と思っていたか。それは、かつての‘音楽評論家’たちのレコード評による影響が大きいと思っている。

わたしがクラシック好きになった数十年前、中・高生の頃である。小遣いの少なかったわたしは、ほしい曲の‘決定盤’を選ぶのに、レコード評の載った本や音楽雑誌によく目を通したものだ(ほとんど立ち読み)。
そこにあった音楽評論家たちのハイティンク評は、総じて「個性に乏しい、地味である」というようなものであった。

自分でレコードを聴き比べる機会もなく、ラジオのクラシック番組にかじりつくほかは何の情報もなかったわたしが、それに影響されないわけがない。

その後社会人となり、わたしは忙しさもあって長いことクラシック音楽をじっくり聞かなかった。それが数年前から、また音楽鑑賞の世界に首を突っ込むようになり、そこで知ったのは、かつてとは様変わりしたクラシック音楽界であった。

新旧交代が進み、若い、新しい指揮者たちがどんどん世界の主要オーケストラを振っている。数十年前に青年だったハイティンクは、いまでは立派に大家の一角を占めている。

考えてみればそれは至極当然のことである。ハイティンクは超一流オーケストラ、アムステルダム・コンセルトヘボウの音楽監督・正指揮者を20年以上も務めたのをはじめ、半世紀の長きにわたって世界の第一線で活躍してきているのだ。
つまり実力を実績で証明してきたのである。凡百の評論家が口をはさめる世界ではない。

これからは、わたしは彼のブラームスやチャイコフスキーなどもゆっくり聴いてみようと思う。

ところで、一般論として言うと、わたしは評論家というものをあまり信用していない。わたしの関わった仕事(出版)の中でも、それはつねづね感じてきたことである。

「言うは易く、行うは難し」というが、評論の世界も同じではないだろうか。「批評は易く、実践は難い」のだ。評論家には、‘上から目線’で作品とその作者(実践者)を簡単に批評するのでなく、もっと広い視野から、真に優れた実践と優れた才能を見出だし、光を当ててほしいと思う。
2015.2.14

*上の写真のCDは、左がマーラーの交響曲第4番(Avro-輸入盤)、右がシューマンの交響曲1~4番他(DECCA・2枚組)。(いずれもハイティンク指揮、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団)