わが家の庭のすみに、水仙の花が一つ咲きました。
少しアップで写しました。
「清純」、「清楚」という言葉が、これほど似合う花もないですね。
国語辞典で「清純」「清楚」を引いてみると、
清純・・・清らかで素直なこと。世の中のけがれにそまってないこと。
清楚・・・飾りけがなく、清らかなこと。
とあります。(デジタル大辞泉)
「楚」という字が気になり、漢和辞典で調べると、さまざまな意味があり、いちばん元の意味は、
「いばら(荊)、大木の下に生える雑木のやぶ」
とのことでした。
そして、そのさまざまな意味のうちの一つに「あざやか。すっきりしている。」があり、その例として「清楚」があがっていました。(福武 漢和辞典)
わたしは少し意外な感じがしました。
「清楚」という言葉には、‘まだ世間ずれしてなく、ナイーブで傷つきやすい’というニュアンスを感じていたのですが、そうではなく、むしろ‘鮮やかで強く、自分の主張をはっきり持っている’というほうが原義に近いようです。
なるほど。それで分かりました。「清楚」こそ、人としてのあるべき姿を表現した言葉ではないのかと・・・。
人間や社会の諸相をよく理解し、世間の汚れや煩わしさをも知って、その上で凡俗におちいらず、心には何のわだかまりもなく、それだからこそ卑屈にも尊大にもならず、きりっと、「鮮やかですっきりした」自分の目を持っている。
・・・これこそまさに、清楚の意味する「率直で飾りけのない、清らかで素直な」生き方そのものではありませんか。
したがって、言葉の使われ方としては、「清楚な乙女」と同列に「清楚なおじさん」もあってしかるべきでしょう。
ところで、水仙というと、わたしはブラザーズ・フォアの歌った「七つの水仙(seven daffodils)*」という歌を思い出します。
また、詩が好きな家内は、ワーズワースの「水仙(The Daffodils)」という詩を思い出すそうです。
おもしろいのは、どちらも daffodils と、英語の単語が複数形になっていることです。
自然の中に広がる黄水仙の群れ。・・・水仙は一つだけを見ても美しいけれど、群生する景観にも、またちがった美しさがありそうです。
でも‘清楚’な水仙は、そんな群れの中にあっても自立し、決して自分を見失うことはないはずです。
他者の思惑を気にしたり、アイツよりオレは上だ・下だなどと思ったり、他者のことより自分の損得を優先したりはしません。
静かに、控えめに、それでいて凛として、ただひたすらに今を咲いているのです。
サウイフ‘清楚なおじさん’ニ、ワタシハナリタイ。
* https://www.youtube.com/watch?v=1i5a2kRqRhY
↑ ブラザーズ・フォアの「七つの水仙」。レキントギターの音が胸にしみる美しさです。