さらにこの線描は画だけでなく、フジタの腿に線だけで描かれるタトゥーとして再生されることになる。
遠近法、見せかけの深みへの抵抗というのは小栗康平の前作「埋もれ木」の製作に関するインタビューでも語られていたことだが、ここでも社会・時代的背景であるとか家族ほかの人間関係といった遠近法の中で人間を位置づけるといった操作を拒絶している。
まさかそういった背景なしに一個の人間がぽつんと自立してありうるわけはないが、かといってそういった近代的な枠組みに近代の日本人がうまく嵌まったかというとかなり危なっかしい。どこかそれこそ線の上を歩いている姿とも見える。
小栗康平らしいとしか言いようのない、芸術性・作家性を微塵も疑わせない作り。ラストに「小栗康平監督作品」とでかでかと出るのはどうかと思ったが。
ふつうのドラマ作りだったら切り捨てられるところをピックアップする「間」を重視しているのは、いつもの小栗作品同様だが、「眠る男」「埋もれ木」と続いたオリジナルシナリオ作品とやや違うのは、やはり実在の人物をモチーフしているからだろう。抽象化が行きすぎず、もう少し地に足がついた感じ。
撮影・照明・美術・衣装などスタッフワークが素晴らしい。
パリでも狐の嫁入りを芝居がかった表現でやっているのを、日本ではCG丸出しの狐で再現してみせる。パリにいるフジタが偽物で日本にいるのが本来の姿、というわけではないのだろう。
オダギリジョーは姿形を似せているだけでなくフジタの内面を表現しているの「ではなく」、内面といったものがあるのかどうか怪しいのを体現して見せている。
一種の軽薄さ、という点ではフランスで活動している時も、軍国主義の日本にいる時もそれほど変わらない、と言える。ルーブルで猛勉強したのは事実だろうけれどそれをわざわざ仲間内でいうあたりが性格描写というより画家としての自己顕示欲の顕れで、それはかなり芸術家の本質にもつながってきているようでもある。
「伽耶子のために」でも古道具市を道端で開いているシーンが奇妙に印象に残ったが、ここでのパリでも古道具市が開かれている。モノがそこにあるべきところにない状態、というのか調和から切り離された状態というのは「伽耶子」の在日の青年にも、フジタにも共通している。
ほとんどフィックスの動きの乏しい抽象化された画面が連続していたのが、ラストのキリストの磔刑図をぐるっとパンと移動を併用しながら捉え、使徒姿のフジタで止まるカメラワークだけカメラの動きが目立つ。結局こうしてヨーロッパと日本の間を揺れ動いていたのかと思わせる象徴的な動きだった。
(☆☆☆★★★)
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