彼女がコーヒーにウイスキーを入れて飲むところがあるが、上映中のテアトル新宿で販売中のアイリッシュコーヒーの解説によると若松孝二がそういう飲み方を好んでいた、その真似だろう(劇場で販売していたのはウイスキーの代わりにシロップを入れたノンアルコール飲料)。
逆に言うと師の真似はしているが、なかなか自分が描きたいものが見つからないというモチーフにもつながってくる。
女を捨てているというセリフがちょっと出てくるが、現実でちゃんと男との関係を持ってはいるし、それが悲劇にもつながる。ずうっとジーパンを履いているのだが、それを最後だけ脱ぐのが効いている。
ちらっとゲイル・アン・ハード(「ターミネーター」のプロデューサーでジェームズ・キャメロンの元妻)がロジャー・コーマンのもとで働いたあとメジャーのスタジオに行ったら「君みたいな女の子がここで何してるの」という扱いだったので、コーマンプロの方が特殊だったのだと気づいたという話を思い出したりした。
若松プロは若い者をこき使う代わりに早い時期に監督として撮れる可能性があるというのはコーマンに比べられたりしたものね。
浜野佐知というやはり女性で一時期若松プロで助監督をつとめすぐフリーの助監督になりさらに監督として50本以上のピンク映画を撮り、さらに一般映画も「第七官界彷徨―尾崎翠を探して」ほか五本作っている人もいる。
こちらはかなりはっきりピンクでもレイプは決して描かないと著書「女が映画をつくるとき」で宣言していて、さらに老人の性をかなり早い時期(2001年)から描いた「百合祭」なども撮っている。女としての(と限るのも何だが)性意識をピンクで生かしたのかもしれない(作品を意識して見たことないので断言はできない)
舞台になっている70年代初めは映画自体が白黒のものとカラーのとが混在している時期なのだが、それをうまく取り入れて部分的に白黒にしているのが文字通り時代色を出すと共に一種の距離感を生んで、それが逆にノスタルジーに埋もれない熱を出した。
登場人物全員が故人存命中関係なくすべて実名というのは珍しいのではないか。それが当時やっていたことに対する責任や自身あるいは落とし前になっている感じ。
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