男を喜ばせるのが生き甲斐の若い女の子、とはいかにも男に都合がいい幻想の女、には違いないが、その映画にしかありえない幻想を、デビュー作の「狂った果実」でフランスのヌーヴェル⋅ヴァーグに先んじたと評された中平康が製作当時(1964年)としてはありったけの技巧とセンスで描いてみせる。
古色を帯びたモダニズムといって不思議な印象を受ける。
正直「狂った果実」は脚本が石原慎太郎(まあ、セリフがひどい)ということもあってか、今見ると女を人間と見ていないのが丸わかりで凄い違和感がある。
昔の映画の無軌道な青春像というのも、しばしば男だけの特権であることがバレてきたとも言える。
これもそうとも言えるし、そうとも言えない。
映画自体が意図的に表面的に“無内容”を気取っているせいもあるし、加賀まりこその人の存在がテレビなどでも受け継がれて今に至っているせいもあるだろう。
というか、元から他人の操り人形にならないヒトなのだとも思える。