1956年5月3日封切となると、ゴールデンウィーク映画ということになる(ゴールデンウィークという言葉は、1951年の「自由学校」を大映が松竹と競って映画化してヒットしたのを捉えて大映宣伝部長が呼ぶようになったのが定着)。
いかに娯楽が乏しい時代だったとはいえ、この地味といえば地味な内容のオリジナルシナリオ(井手俊郎)が、れっきとした一流キャストスタッフで映画化され、しかもおそらくヒットが見込まれたのに驚く。
しかもこの年、監督の成瀬巳喜男は他に「驟雨」「流れる」と三本も撮っている。
地味と言ったが、実は微妙な感情の綾や変化が、細かい技巧が絶えずこらされて具体的、映画的に描かれているのが見もの。
撮影・玉井正夫、美術・中古智、照明・石井長四郎、録音・下永尚、音楽・斎藤一郎といったスタッフワークの見事さ。撮影所の底力がうかがわれる。
成瀬巳喜男は小津は二人いらんなどと城戸四郎に言われたというが、言うまでもなく似て非なるもの、というより似てもいない。
微妙に斜めからのアングルと、前後のカットをかぶせるようななめらかな、しかしときどき飛躍させる繋ぎ。
三船敏郎がてらいのない二枚目ぶりで、人妻高峰秀子と一緒に歩いているだけで噂がぱっと広まるだけのオーラを発散していた。りゅうとした背広にネクタイと頭を撫でつけたスタイルというのも珍しい。
二人が連れ立って歩いていると雨で小さな店に一緒に降り込められるあたり、降ってくるのを省略していきなりざあざあ降りになっている中で二人きりになっているのに繋ぐ小さな省略の緊張感。
雨がやむのか降り続けるのか曖昧なまま何度かはさまる雨足のカットのサスペンス。
三船というと女性の前でバカみたいに照れるイメージが強いが、ここでも互いに憎からず思っているのに何言っていいかわからなくなってしまう微妙な気まずさがよく出た。
小林桂樹の夫が芸者を連れて秘密に旅に出るなど、今の感覚だったら即離婚ものだろう。
そういうところは変わったけれど、女って本当に損、というセリフはまだ生きているだろう。
成瀬巳喜男監督作の常で、身近な金の貸し借りのうっとうしい感じが実によく出ている。
最近出た新書でまだ読み終えてないが「サラ金の歴史」小島庸平によるとこういう背景があるから人に知られずに借金できるシステムが発達したとわかる。